解説
時代
日本における石器時代の後期にあたる。約1万6000年前から約2300年前まで(諸説あり)、約1万年以上の間日本列島で続いた。縄文文化の地理的な範囲は概ね樺太南部から沖縄諸島まで(先島諸島は含まれない)で、後年の日本国の領域とほぼ重なるが、琉球諸島の縄文文化を「貝塚文化前期」として分ける考えもある。
時期的には草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに分けられるが、草創期は非常に長く、晩期は短い。よって「縄文時代中期」(約5000~4000年前)は「縄文時代の中ごろ」を意味するものではない。列島中央部は約3000年前〜約2300年前(九州では縄文文化が早くに終わり、東日本、特に東北地方では遅くまで存続した)から弥生文化に移行するが、その後も北海道では「続縄文文化」、沖縄では「貝塚時代後期」として縄文文化が継続した。
世界史的な区分では概ね新石器時代に当たるが、縄文文化は新石器文明に特徴的とされる「大規模集落の造営」や「巨石構造物の築造」などを行いながら、「農耕・牧畜などの生産経済に移行」(新石器革命)という条件を欠いている。このため日本列島においては「新石器時代」の歴史区分は適用できない。逆に言うと、狩猟採集を基本とする生活によって、新石器水準相当の高度な文化を築いたのが縄文の独自性といえる(縄文時代の一部〜全部を旧石器と新石器の中間段階である中石器時代とする考えもある)。
「縄文」の名は、縄文土器に縄目文様がついていることから。旧石器時代とは縄文土器、弓矢の普及、定住化と竪穴式住居の普及などで区別されるが、その境界は往々にして不明瞭であり、草創期は旧石器時代からの移行期とも言える。弥生時代とは水田稲作の有無で区別される。かつては縄文土器から弥生土器への移行でも区別されたが、縄文土器から弥生土器への移行はしばしば不明瞭であり、「縄文時代晩期の遺跡から弥生土器と見まがうような土器が出土」したり「弥生時代前期の遺跡から縄文土器そっくりの土器が出土」することなどざらにある。このため逆に「縄文時代に作られた土器が縄文土器」「弥生時代の土器が弥生土器」と定義されるようになった。
かつて(第二次大戦前)は、「縄文人は先住民族であり、現代日本人の祖先に征服された」と信じられていた。その後の研究の進歩により、縄文人は弥生時代に大陸からの渡来人と混血して今の日本人になったと考えられている。渡来人の影響を色濃く受けた列島中央部でも、縄文の伝統が絶えて外来の弥生文化に置き換わったというより、在来の縄文文化と渡来文化が日本列島で融合・変質して弥生文化に移り変わっていったという方が実態に近いようだ。
自然環境・風土
この時代の草創期に氷河期が終わり、温暖化が進んで四季が生まれた。それまで列島の広い地域が針葉樹林や草原に覆われていたものが、北海道を除いて落葉広葉樹林と照葉樹林に変化していった。動物もマンモスやトナカイ、ナウマンゾウ、オオツノジカのような大型動物は絶滅し、クマやイノシシ、オオカミ、シカ、ウサギなどの中小動物が生息するようになり、日本列島の自然環境はほぼこの時代に整った。縄文早期後葉以降はさらに温暖化が進み、ピーク時(約6000年前)には現在に比べて海面が2~3メートル高くなった(縄文海進)。
生活
狩猟採集が生活の中心であったが、原始的な農耕も行っていた。人々は森や川の近く、あるいは海辺で定住生活を送り、竪穴式住居に住んだ。ただし、数戸の小さな村がほとんどであり、多くても十数戸程度である。縄文人が100戸以上の巨大集落を築いたのは中期の東日本(千葉市の加曽利貝塚、青森市の三内丸山遺跡など)におおむね限られる。
海に近い地域ではしばしば貝塚が形成され、食生活の一端がうかがえる。人々の交易も列島規模で広がっており、各地域の特産品も列島各地に流通し、また一部の工芸品や物産は朝鮮半島や満州にも渡っていた。
技術・文化
金属製品はなかったが、縄文土器が多く出土する。旧石器時代に引き続き磨製石器・打製石器が使われたほか、動物や魚介類の骨や、貝の加工が発達した。有機物は腐ってしまうので出土することは少ないが、数少ない出土例からは織物や漆工芸などの高度な工芸技術も当時から生み出されていたことが知られている。
土器や土偶の芸術性は特筆されるが、立体表現の豊かさに対し、平面表現である絵画の出土例は稀であり、人を描いたものは長野県八ケ岳山麓と北海道木古内町から出土した土器に描かれたもの各1点くらいしかない。縄文人は何故か二次元には疎かったらしい。
農業
縄文人も農業をしていたことは確実とされており、当時の人々の主食であった栗の植栽をはじめ、雑穀・野菜・イモの焼畑農耕、陸稲栽培が広く行われていた。しかし、縄文後期になっても農業を全くしなかった地域も少なからずあった。農業が十分に浸透しなかった理由は諸説あり、自然の循環に生きる縄文人は自然を人工的に作り変える農業を好まなかったとか、自然の恵みが十分にあったのであえて農業をする必要がなかったとも言われる。
衰退と終焉
縄文中期ごろから日本列島は再び寒冷化に向かい、後期には人口も減少傾向になった。中期後半から後期にかけては、東北地方から北海道を中心に、列島各地で大規模な環状列石(ストーンサークル)などの構造物が作られた。これは気候の寒冷化で巨大集落が営めなくなり広い地域に散らばった人々が、一族の結束のための祭祀の場を築いたものと考えられている。
晩期に至ると、西日本の縄文文化は壊滅状態になった(朝鮮半島から渡来人が渡ってきた当時の北九州や中国地方は、無人に近い状態だったようだ)。そうした中で大陸からの農耕を中心とする弥生文化が西日本から広がり、本州北端にまで及んだ。しかし、東日本の弥生文化には縄文の名残が色濃く、時代が弥生に移った後も縄文の伝統が根強く残っていたことがうかがえる。古墳時代に移行した後も、北海道・北東北地方では続縄文時代が続いた。