プロフィール
生年月日 | 1992年4月23日 |
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出生国 | アイルランド |
欧字表記 | Pilsudski |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | ポリッシュプレセデント |
母 | ココット |
母の父 | トロイ |
競走成績 | 22戦10勝 |
父方の祖父はノーザンダンサーの後継種牡馬の1頭で、日本調教馬でもアグネスワールドやビコーペガサスなどの父であるダンジグ。
半妹に、2002年の秋華賞・エリザベス女王杯を制したファインモーション(1999年生、父デインヒル)がいる。
また、半姉のハニーバン(1991年生、父アンフワイン)は繁殖牝馬として活躍し、その牝系からは2014年の中山大障害を制したレッドキングダムや、熊本産馬初のJRA重賞馬ヨカヨカが出ている。
競走馬時代
欧米での活躍
1994年に欧州戦線でデビュー。3歳となった1995年7月にようやく初勝利を挙げる。
古馬となった1996年に大きく成長し、アメリカの芝中距離最強馬決定戦であるブリーダーズカップ・ターフを含めGⅠ2勝を挙げる。
翌1997年も、イギリスのエクリプスステークス、チャンピオンステークスなどさらにGⅠ3勝。
キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと、フランスの凱旋門賞でも2着に食い込んだ。
1997年ジャパンカップ
欧米競馬界で以上のような活躍を挙げたピルサドスキーは、1997年限りで引退し、JRAが買い取って日本で種牡馬となることが決まった。
日本に輸入されたピルサドスキーは、現役生活最後のレースとして国際招待競走であるジャパンカップに参戦する事になった。すなわち、新種牡馬の実力のお披露目を兼ねたものである。
ところが当日、出走直前のパドックにて放送事故が発生する。
理由は不明であるが試合前にピルサドスキーが馬っ気を起こし、その局部が大型モニターやテレビカメラに中継されてしまったのである。
レース前に牡馬がこうした馬っ気を見せることはままある。
通常、こうした様子の馬はレースに集中できていない証拠と捉えられ、馬券から外すのが鉄板と言われている。実際、ピルサドスキーの馬券購入を直前で取りやめた者もおり、最終的にはバブルガムフェロー(3.7倍)、エアグルーヴ(4.0倍)に次ぐ3番人気(4.6倍)に留まった。
しかし実際のレースでは、最終直線で内から上がり最速の末脚を発揮。先頭を走っていたエアグルーヴをクビ差差し切り、GⅠ6勝目を挙げて現役生活の有終の美を飾った。
なお競馬評論家の大川慶次郎は自身の著書で、ピルサドスキーが馬っ気を出したのは発情ではなく「俺が一番強い!王様だ!」というアピールを他の出走馬に対して誇示するための、動物行動学的見地に沿った行動であったと自らの見解を述べている。
引退後
以上のような流れを経て引退、日本で種牡馬入りした。
欧米での高い実績とジャパンカップで日本の競馬関係者に示した強さから、人気と期待を集め、有力な繁殖牝馬が集まり、産駒が高値で取引された。
しかし、いざ2001年に産駒がデビューしてみると、なんと初年度中の勝ち上がり(=新馬戦または未勝利戦で、とにかく1勝)頭数がゼロという期待に反した滑り出しとなる。
その後も、繁殖相手の中には1992年の阪神3歳牝馬ステークス馬スエヒロジョウオー、1993年の桜花賞・オークスともに2着のユキノビジン、1994年のオークス馬チョウカイキャロルなどの実績牝馬も含まれていたが、結局中央のオープン馬や地方重賞勝ち馬がわずかに出た程度であった。
この結果から、種付け頭数は急速に減少して日本での種牡馬生活は立ち行かなくなり、産駒デビューからわずか2年半後の2003年9月には母国アイルランドに買い戻された。
その後障害競走の種牡馬を経て、現在は事実上の国営牧場にて余生を送っているようである。
馬名について
名前の「Pilsudski」はポーランド語に由来し、現在のポーランド共和国建国の父ユゼフ・ピウツスキ(1867~1935)から取ったものである。
ところが、日本に輸入されてカタカナ馬名登録が必要となった際に、その発音を元々の所有者であるイギリス人馬主に尋ねた結果、英語読みの「ピルサドスキー」で登録されてしまった。
この経緯が明らかになると、一国の建国者の名を誤った発音で登録するとは国際問題になりかねない、と日本国内で議論が起こったが、結局現在に至るまで日本語馬名は「ピルサドスキー」のまま通されている。