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河内洋の編集履歴

2022-02-06 10:52:55 バージョン

河内洋

かわちひろし

JRA栗東トレセン所属の競馬調教師。元騎手。

概要


生没年1955-(66歳)
所属栗東
騎手1974年-2003年
開業年2005

大阪府出身。父はかつて存在した地方・春木競馬場で調教師をしており、幼少時から父の厩舎で育ち、中学生のときには調教騎乗をしてから学校に通うのが日課だった逸話がある。祖父もまた中央競馬の調教師で、のちに師匠となる武田作十郎調教師とも親交があり、武田厩舎の馬の外厩として父が預かっていたことなどの縁から、中学卒業時に武田より河内を預かりたい旨を提案され、その後中学を卒業、短期講習を受けて騎手免許取得を得ることになる。


そして1974年、19歳で栗東所属の騎手としてデビューし、デビュー戦で初騎乗・初勝利を収めると、その勢いで年間26勝を挙げ、関西記者放送クラブ賞(関西での最多勝利新人騎手賞)を受賞。翌1975年には小倉大賞典を勝利して初重賞制覇。そして1979年アグネスレディーに騎乗して優駿牝馬を勝利、初の八大競走制覇(当時はグレード制導入前)し、菊花賞でもハシハーミットに騎乗して勝利している。


同年に当時リーディングジョッキーだった福永洋一福永祐一の父)が落馬で重傷を負い、その後騎手を引退したことから、彼の後を継いだのが河内と同世代の田原成貴であった。1980年には自身初のリーディングジョッキーを獲得し、田原とは以後80年代関西競馬で切磋琢磨する間柄となった。武田厩舎には1985年まで所属し、その後はフリーランスで騎乗していた。


とりわけ牝馬の騎乗については名手ともいわれ、桜花賞メジロラモーヌアラホウトクアグネスフローラ(前述のアグネスレディーの仔)・ニシノフラワーで、オークスを前述のアグネスレディー・メジロラモーヌで、エリザベス女王杯をロンググレイス・メジロラモーヌと複数勝利している。


また、マイル戦も有名馬に多く騎乗しており、ニホンピロウイナーサッカーボーイも河内が主戦で、かのオグリキャップ笠松転厩からの現3歳初戦は河内が鞍上だった。


騎手生活の晩年の2000年にはアグネスフライト日本ダービーを、2001年アグネスタキオン皐月賞を勝利するが、旧八大競走は天皇賞・秋を制することができず、2003年に1000勝騎手の調教師試験免除の特例廃止となる事情を受け、現役を引退。


引退後はアグネスレディー・アグネスフローラ・アグネスフライト・アグネスタキオンを管理し、河内にとっても縁がある長浜博之調教師(なおアグネスレディーは長浜の父・長浜彦三郎が管理していた。)の下で技術調教師として研修を積み、2005年に開業。


開業後は重賞勝ち馬を数頭出しているが、現在までGⅠ勝利は未勝利である。


2014年には騎手顕彰者として殿堂入りを果たしている。



新人時代、武田厩舎に所属した名手武邦彦のもとで騎乗を学び、その後邦彦の息子である武豊も河内の騎乗を学ぶことになった逸話がある。そのため、武邦彦・武豊とは兄弟弟子の間柄である。他にも人柄のよさから「青年団長」と呼ばれた。


また、2000年にはJRAのCMで岡村隆史演じる新人の岡村騎手の先輩騎手役として共演している。


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