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伊賀氏の変の編集履歴

2022-12-06 15:06:41 バージョン

伊賀氏の変

いがしのへん

鎌倉時代初期の政変の一つ。貞応3年(1224年)、鎌倉幕府2代目執権・北条義時の急死後にその後継を巡って発生したもの。政変は未然に阻止され、首謀者とされた義時の継室・伊賀の方や伊賀氏一族が配流されるという結果となった。

概要

鎌倉時代前半に発生した政変の一つ。鎌倉幕府第2代執権北条義時の逝去に際し、その継室・伊賀の方や彼女の実家である伊賀氏一族が義時の長男・北条泰時を排除し自分たちの血を引く五男の北条政村を後継の執権の座に据え、将軍(鎌倉殿)も九条三寅(頼経)に代えて伊賀の方の娘婿である一条実雅(※)を将軍にしようとしたものである。

この企て自体は、「尼将軍」北条政子らの迅速な処置によって未然に阻止され、泰時が京都より召還され第3代執権に就任。伊賀の方を始めとする首謀者らも配流という形で幕引きがなされた。


一方で、この政変はあくまでも『吾妻鏡』での記述に拠るところが大きく、同書でさえも伊賀氏が謀反を企てたと明言はしていないこともあり、実際に前述したような企てがあったのかという点については未だ謎の残されている事件でもある。

また、実態がどうであれ「実弟とはいえ謀反の疑いのある者を不問として処罰を下さなかった」という点から、泰時の慈悲深さ・名君ぶりを示すエピソードとして紹介されることも多い


源頼朝の同母妹・坊門姫の夫である一条能保の子。ただし、母は坊門姫ではない。


事件の推移

事件は、貞応3年6月13日(1224年7月1日)に執権・北条義時が急死したことに端を発する。

義時には6人の息子がいたが、この時点で後継者と目されていた長男・泰時は六波羅探題北方の務めのために在京の身であり、彼を除く5人が鎌倉に在る状態であった。このため6月18日に営まれた義時の葬儀にも、この5人が参列している。

が、訃報に接して直ちに鎌倉へ向かっていたはずの泰時はこの時、どういう事情でかは判然としないが北条氏の本領である伊豆に向かっており、遅れて京都を発った叔父で六波羅探題南方の北条時房や、従兄弟に当たる足利義氏と共に鎌倉に入ったのは、葬儀からさらに一週あまりが過ぎた6月26日のことであった。この後の動向から推し量るに、恐らくはこの鎌倉入りまでの間、鎌倉市中に飛び交う風聞などの情報収集に当たり、事実の精査に当たっていたのではないかと考えられている。


その翌々日、北条政子の館に呼び出された泰時・時房の両名は、政子や大江広元から「軍営御後見」、即ち執権として政務に当たるよう命じられた。これと前後して、泰時の四弟・政村の周辺がにわかに騒然となり、泰時が政村討伐に乗り出すといった風聞や、政村の外戚に当たる伊賀氏が前述の軍営御後見の件を不服とし、伊賀の方が自分の子である政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に据えようしているという画策が、実しやかに囁かれるようになる。

が、一方の泰時はこれらの風聞を事実無根として静観の構えを取っており、その後も政所執事の伊賀光宗を始めとする伊賀の方の兄弟たちが、政村の烏帽子親でもある三浦義村の館に出入りし密談に及んでいるとの噂が立っても、やはり動揺する様子を見せなかったという。

伊賀氏による「陰謀」の噂が立ってから20日ほど後の7月17日、鎌倉近郊で騒動が発生する一方で政子が三浦邸を自ら訪れ、義村に事実関係を問い糾した。政子からの再三の詰問に対し、「政村に反逆の意思はないもののその周辺に何らかの考えがあり、自分ももしもの時は自ら制止に当たる」と義村は返答。翌日には逆に義村が、泰時の館を訪れ釈明に及んでもいる。

その後も7月の末に空騒ぎが起こっており、翌閏7月に入って早々に次期将軍・三寅と、その後見の政子の臨席のもとで宿老会議が開かれ、義村や葛西清重結城朝光ら列席した御家人たちに二心のないこと、そして新たな指導者たる泰時への支持が、その場にて改めて確認・確約されたと見られる。


これらの流れを経て、閏7月3日には「伊賀氏による政変の企て」が明るみに出たとして、その首謀者と目された伊賀の方や伊賀光宗ら兄弟、それに一条実雅に対する処分が決定された。

同月のうちに実雅は京都へ送還され、朝廷に処分を一任し後に解官の上で越前へ配流。8月の末には伊賀の方が伊豆へ、伊賀光宗が政所執事職を解かれた上で信濃へそれぞれ配流とされた。光宗の弟である朝行・光重も在京中の北条時氏(泰時の長男)の元へ預けられた後、両名とも九州へ配流という形で、一連の「政変」の幕引きが図られたのである。

伊賀の方は、それから間もない12月の末に危篤となったとの報せが鎌倉にもたらされており、時期こそ明確ではないがそれから間もなく帰らぬ人となったと見られる。一方で伊賀光宗やその兄弟は、翌嘉禎元年(1225年)に政子が逝去した後に幕府から所領の回復と、評定衆への復帰を許されている。しかし実雅はその翌々年の嘉禎三年(1227年)に越前で変死している。


「政変」の謎

以上が、『吾妻鏡』など同時代の史料から読み取れる政変の経過、そして現代において広く知られている「通説」であるが、一方で前述した「伊賀氏による政権簒奪の企て」と単純に受け取るには、少なからず不審な点も複数見受けられるのもまた確かである。とりわけ、

  • 「首謀者」である伊賀の方らが配流となった一方、執権に擁立されようとしていた政村やその同母弟・実義(のち実泰)は連座を免れている
  • 伊賀光宗やその兄弟たちも、政子や大江広元が亡くなって程なく幕政への復帰を許されている

という、仮にも政権簒奪という大罪を犯した立場の人間に対しては寛大に過ぎる措置(室町時代足利義持とかのケースと比較しても)が講じられているのも見逃せない点であろう。一応、この当時の鎌倉幕府が承久の乱を鎮めたとは言え未だ不安定な状態にあり、幕府の足元の動揺を防ぐためにもあまり厳重な措置には踏み切り難い、という背景が潜んでいたにしてもである。


ここで重要な点が2つ挙げられる。1つ目は「当事者の一方であるはずの北条泰時が、一貫して「事実無根」であると事態の沈静化に努めている」こと。そして2つ目が「泰時と政子とが必ずしも歩調を合わせた動きを取っている訳ではない」ことである。

そもそも前述の通り、伊賀氏による謀反の風聞は『吾妻鏡』の貞応3年6月28日条での記述に拠るところが大きく、他の同時代史料にこれを補強するだけの記述は確認されていない。加えてその『吾妻鏡』でさえも、伊賀氏の謀反はあくまでも風聞止まりに過ぎず、それが確たるものとして記されている訳ではないことにも留意すべき必要がある。

にもかかわらず、この一件は政子や広元の主導により「謀反が実際にあった」という既定路線の下、ともすれば不自然とも言えるほどに迅速な措置が講じられており、こうした政子たちの性急な姿勢は終始慎重な見方や動きに徹していた泰時とは、まるで対照的なものであった。


つまるところ、この一件は前述の『吾妻鏡』における記述を信用するか否かで、その見え方が大きく異なってくるものとなっている。件の風聞を屈託なく信用した場合が前述した「通説」となる訳だが、泰時と同様に事実無根として捉えた場合、もう一つの側面――即ち「政子らにどうしても伊賀氏を排除したい何らかの思惑があったのではないか」という疑いが浮かび上がってくる。

実は伊賀氏の変のような政権簒奪の企ては、何もこれが最初という訳ではなく、「畠山重忠の乱」後に「牧氏事件(平賀朝雅の乱)」という政変が起こっている。時の執権・北条時政牧の方夫妻は当時の鎌倉殿である源実朝を排斥し、娘婿である信濃源氏の平賀朝雅を次期鎌倉殿に擁立せんとする企てが画策されながらも、義時・政子ら体制側の迅速な措置によって企てが頓挫。逆に時政と牧の方は流罪に追い込まれ朝雅も誅殺され政権中枢から排斥されるという、前述の「通説」に近い構図が展開されている。

このことを踏まえて考えると、政子たちが牧氏事件の時と同様に、伊賀の方やその一族を「謀反人」に仕立て上げ、強引にでもこれを幕政に影響を及ぼす立場から排除せんと考えていたのではないか、と見ることもできるのである。

泰時は当時四十歳を過ぎ従五位上武蔵守の官職を持ち現役の六波羅探題北方であるのに対し、政村は二十歳に達したばかりで無位無官かつ無役である。おまけに政治家としての名声を既に得ていた泰時とこれといった実績がない政村では普通なら勝負にならないのだが…それでも政村にひっくり返されかねない致命的な弱点を有していた。それはかつての平重盛同様、後ろ盾となるべき母方の血縁者を欠いており政治基盤が脆弱だったことである。加えてこれ以前にも、時政の意向で義時の次男・朝時が兄や父を差し置いて北条氏の家督継承者と定められていたという説もあり(詳細は北条朝時の記事を参照)、一族内での立場は必ずしも盤石ではなく不安定で平家における小松家のような立場になりかねなかった。ここで政子たちが次期執権と定めた泰時の対抗馬になりかねない存在を除いて、少しでも泰時の立場を確たるものとする必要はあったと考えられる。

同時にこれは、泰時だけでなく政子の立場にも関わるものでもあった。実朝の横死で京都より摂家将軍を迎えた時点で既に政子と将軍家の血縁関係は断たれ、さらに時政から義時、そして泰時へと代替わりしていくに連れて北条本家との関係すらも希薄になりつつある中、両者への影響力の低下を恐れた政子がこの「謀反」をでっちあげたのも、かつての源氏将軍家における自分がそうであったように、伊賀の方もまた前の当主(義時)の後家として、今後の北条氏の中で強い立場を持つことにもなり得たからではないか、と見る向きもある。


とは言え以上の見解についても、現段階ではあくまで有力な説の一つに過ぎず、どちらが事実であったのか、あるいはそれとはまた別の側面があったのかについては、未だ確定を見ていないという点に留意すべき必要がある。


関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府

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