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紫式部の編集履歴2024/04/11 11:42:47 版
編集者:hirai_killima
編集内容:宣孝についてなど加筆

生涯

生没年不詳。平安時代中期の作家歌人。日本最古の長編小説とされる『源氏物語』の作者。父は当時の大学者であり歌人でもある藤原為時一条天皇の中宮藤原彰子に仕えた。

紫式部は女房名であり、本名は藤原香子であったとする説がよく知られているが確実ではない。また「香子」説が正しかったとしても、読み方はかおるこだったのかたかこだったのかそれともよしこなのかはっきりしない。ちなみに、紫式部を主人公とした大河ドラマ光る君へ』では“まひろ”という名前になっており、“香子”ではない。

「紫式部」の呼び名は、「式部」が彼女の父(または兄)が式部省(現代でいうところの人事院に相当するお役所)に仕える官僚であったことに由来し、「紫」については当時の女房名としては類例のないネーミングなので諸説あるが、最もよく知られているのは『源氏物語』の別称『紫のゆかり』に由来するというものである。つまり、「紫の上が出てくるお話を書いた、式部省のお役人の家柄の女性」という意味になる。

父が漢学を教えていた花山天皇が藤原兼家とその子息たちにより退位させられ、しばらく出世には恵まれなかったため、若い頃は不遇な時代を過ごす。聡明で漢学に明るかったが、当時は女性が学問(特に漢文)に長けている事は素直に称賛されるような環境ではなく、辛い思いもさせられたようだ。

長徳4(998)年ごろ、山城守・藤原宣孝と結婚する。宣孝は恋多き男で知られ、紫式部とは親子ほども年の差があった上、『枕草子』で派手好きの性向が揶揄されていることなどから、現代的な感覚で「紫式部からすると気の進まない結婚だったのではないか」という憶測がささやかれることがあるが、紫式部は夫が他にも通う女性がいることは承知の上で結婚したのであり、地味な紫式部と派手な宣孝では性格が違いすぎる(から不仲だったのだろう)というのも偏見に過ぎない。宣孝との間には一人娘の藤原賢子(のちの大弐三位)を儲けるが、まもなく宣孝は世を去る。この時の紫式部の心境は「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」の歌に詠まれた。このころから『源氏物語』を書きはじめ、これが宮中で評判になったことで寛弘2〜3(1006〜1007)年ごろに中宮・彰子の女房として取り立てられ、宮仕えを始めた。ただし、式部と言う名が父・為時に由来するとすれば、長徳2(996)年に為時が越前守に任命される前に付けられたとも考えられ(同年以降に仕えたならば「越前」にちなんだ女房名になるとする考えから)、早い時期(結婚前)に彰子の両親である藤原道長もしくは源倫子に仕えていた時期があるのではないかと推測する研究者もいる。

宮仕えを退いた後の彼女の足取りは明らかではないが、『源氏物語』作者としての評判が高く、藤原道長のような有力な庇護者がおり、娘の大弐三位が親仁親王(のちの後冷泉天皇)乳母、従三位典侍などとして出世を遂げたことから、平穏な晩年を送ったのではないかと推測されている。

こぼれ話

「紫式部日記」では宮仕えの先輩である赤染衛門のことを尊敬し褒めて書いていたり、後輩の和泉式部に関しては私生活には問題あるが、和歌の才能は素晴らしいと少々皮肉めいたことを書いている。清少納言の事を誹謗する記述があることから、清少納言とライバル関係にあったという風評があるが、実際は紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が退職した何年も後であり、二人は顔を合わせたことがないと思われる。

娘の大弐三位も歌人として知られる。母について若いころから宮廷に出入りしていたが、宣孝譲りと思われる明るく屈託のない人柄で多くの公達に愛され、貴族の女性として位人臣を極める幸福な一生を送った。彼女を通じてその血筋は高階氏に続き、藤原摂関家皇室とも関わることとなる。

モデルにした登場人物が出る作品

現代の商業誌ではあからさまに性悪な人物として描かれるものもあり「うた恋」など)、その場合清少納言が美化して描かれている。

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編集者:hirai_killima
編集内容:宣孝についてなど加筆
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