稲葉一鉄
いなばいってつ
プロフィール
生没年:1515年〜1589年
幼名:彦六
通称:彦六郎
諱:良通など
号:一鉄
官途名:右京亮、伊予守
経歴
美濃国曽根城主・稲葉道則の六男。
氏家卜全・安藤守就と共に美濃三人衆、不破光治を加えて西美濃四人衆とも呼ばれていた。
最初は僧籍にあり快川紹喜に師事したという。しかし、父や5人の兄が浅井亮政(長政の祖父)との戦いで討死したため還俗して稲葉家と曽根城主を継ぎ土岐頼芸に仕えた。その後斎藤道三、高政(義龍)、龍興の三代に仕えていたが、龍興とは折り合いが悪く織田信長へと服属。
その後は信長の配下として姉川の戦い、長島一向一揆討伐、長篠の戦い、甲州征伐などに参陣。1574年に出家し一鉄と号した。1579年に嫡男(次男)の稲葉貞通に家督を譲る。
本能寺の変が発生した際には、旧領奪回を狙った
守就を返り討ちにし事実上自立。その後、嫡孫の稲葉典通が家督を継ぎ貞通と共に典通を後見する。賤ヶ岳の戦いでは森長可や氏家直通(卜全の嫡子)と共に羽柴秀吉に味方し織田信孝や滝川一益と対立した。
小牧・長久手の戦いを最後に戦場には出ていない。
1588年、隠居先の清水城にて病死。享年74歳。
孫の牧村利貞(庶長子・稲葉重通の子)は利休七哲の一人とされるが一鉄も茶の湯の心得があった。
頑固者
知勇兼備の名将だったが、頑固者でも知られ「頑固一徹」と言う言葉が生まれたともされている。
その一つに姉川の戦い後における信長との逸話がある。
信長は一鉄を戦功第一と称し、偏諱を授け長通と名乗るように命じたが、その際一鉄は信長に対し
「誰が功績第一ですか!この勝利はどう考えても徳川殿のおかげだと言うのに、なぜ私が徳川殿を差し置いて功績を受けよだなど、本気で言ってるんですか!」
そう思いっきり言いのけ偏諱授与も辞退した。
フィクションにおける稲葉一鉄
信長の野望シリーズ
戦国群雄伝から登場。能力的には一貫して中の上。