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ローマニアの編集履歴

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ローマニア

ろーまにあ

イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家 紀元前753 - 1453滅亡 存続2200年 

IMPERIVM ROMANVM

概要

狭義:紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。

広義:紀元前753年のロムルスの建国による都市国家(ローマ王国王政ローマ)から紀元前509年の共和政期(共和制ローマ古代ローマ)紀元27年以降の帝政期(帝政ローマローマ帝国西ローマ帝国 AD476年東ローマ帝国1453年完全滅亡(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)までの期間をさす。


版図


帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。


「ローマ」の国名を持つその他の国家

  1. 1798年に樹立されたローマ共和国(18世紀)
  2. 1849年に樹立されたローマ共和国(19世紀)

名称


通称

世界帝国世界国家


セナートス(元老院)

概要

ローマの国政諮問機関である。勘違いされるが最高意思決定をするところではない。

元老院は王政期から存在したとされその構成員は当初は貴族(パトリキ)のみであった。


のちに元老院議員の資格は政務官経験者となり、平民(プレブス)にも開かれ後世になってそうした平民は平民貴族と呼ばれた。ノビレスは、そうした平民貴族とパトリキの総称である。後にノビレスなどは『貴族』を表す言葉になっていく


元老院創建は王政期のロムルス王、ヌマ・ポンピリウス王が開いた御前会議が起源。ローマ元老院は伝説の時代から継続していたのである。よって初期元老院議員も神格化されている場合がある。エトルリア人のローマ王を追放し初代執政官となったルキウス・ユニウス・ブルトゥスはローマ神の一人で神殿もある。


執政官の諮問機関であったが名望家や現職および元職の要職者のほとんどを議員とし、名望家は多数のクリエンテス(パトリキの従者・家来)を抱えることにより立法機関である市民集会に多大な影響を与えていたため、その実体は外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関であった。元老院はパトリキ・ノビリス・プレブスの層の人々の参加が認められていた。


政治のの流れとしてはパトリキなどが元老議員として出席し、それをクリエンテスがパトリキより命じられて動くという構造に近い。新たに元老院議員となる場合、過去に議員を輩出した家系の出身者であることが有利に働いたが、有利とはいってもノビレスであれば自動的に議員になれるわけでもなく、ましてや世襲によってその身分が継承されることもなかった。


元老議員

元老議員の多数を占めるノビレスは、ノブレス・オブリージュの精神の体現者という側面が強く、そのため戦場に赴くことを厭わずそこで戦死する者も多かった。加えて古代故に各議員の寿命は短くまた職を担えないほどに老衰した際は自ら身を引く者も多かった。そのため元老院議員の身分は終身であるにもかかわらず議員の新陳代謝は十分に機能していた。


ローマで要職を目指す者は成人(17歳)から約10年に亘る軍隊経験が必須とされていた。ただ、500年に渡って共和政体が続く中で軍隊経験以外でも例外が認められるようになり(たとえば、将軍の子弟とか、コネで得るとか)完全に遵守されていた時代は少ない。元老院議員になった者も例外ではない。裏を返せば元老院は軍事及び国政に関する経験や見識を備えたエリートの集団であったと言える。


終身制であるが故に1度議員になればその身分を失う不安はなく、そのため各議員には長期的視点に立ってローマの方向性を示すことが期待されたこれに対し、官職はほぼ全て選挙で選出される。古代世界でこれだけ『公明正大』を達成したのはローマのみとされる。


コンスタンティノポリス元老院

330年のコンスタンティヌス1世による新首都コンスタンティノポリス開都に伴い、

コンスタンティノポリスにも元老院が置かれた。ローマの場合と同じく、主に都市参事会員層が元老院議員となり最初から皇帝の諮問機関として設立された。


支持基盤を必要としたコンスタンティヌスが帝国東部を円滑に統治するため、伝統的勢力である都市参事会員層の支持を取り込み、恩恵を与える場が必要であった。このコンスタンティノポリスの元老院は東ローマ帝国にも皇帝の不在時に国家を代表する役割や皇帝が後継ぎを指名せずに死去した場合に後継皇帝を指名する役割を果たした。


ローマ元首「元老院・軍隊・市民の推戴によって初めて帝位の正当性を受ける」という不文律があった。これは前述のローマ元老院の伝統を引き継いだためである。7世紀後半以降は一定以上の爵位を持つ高級官僚を元老院議員とするようになり元老院議員身分の世襲は認められなくなった。役割も儀式的なもののみとなった。しかし名目的ながらビザンツ滅亡まで元老院という機関は約1100年間存続した。


民会(コミティア

概要

ローマ市民のみで構成される最高意思決定集会である、ローマ建国時クリア民会が最初であるが、後に有力になったのは兵士会トリブス市民会の二つの市民の集会である。元首政治以降はアウグストスが他の候補を差し置いて当選することが多くなり。彼の治世中に民会は解散した。


  • クリア市民会

ローマ建国時に創設された民会。

「クリア」と呼ばれる単位によって行なわれるクリア民会が行なわれていた、やがて兵制に基づく「ケントゥリア」を単位とするケントゥリア民会が中心となり以後最も権威ある民会として機能しつづけた。しかし長すぎる歴史からかクリア民会の事はよく解っていない。


  • 兵士会

出陣

,ローマ軍団の軍団所属の兵士=ローマ市民たちの軍男所属単位で選挙を行う集会、結果的に重装歩兵や上流階級で占められる軍団長が有利となってしまい、公平とは言い難かった。


  • トリブス市民会

他居住地である「トリブス」を単位とするトリブス民会(平民会)も行なわれるようになりケントゥリア民会にも一定トリブスが導入された。当初のパトリキの支配からノビレスの支配に変わるまでにローマではパトリキとプレブスの「身分闘争」が行われたといわれている。


市民層の変化などによって重要性が増しながらも政治的発言権の小さかったプレブスの間ではパトリキに対する反発が蓄積していた。こうした下層プレブスの不満を背景に、上層プレブスはパトリキから政治参加への妥協を勝ち取りパトリキと一体化してノビレスを構成するようになった。


ローマの官僚体制(マジスタラトス)

首都ローマ官僚・官僚体制おもにクリエンテスで構成される。この時代の官僚はまだ鉄壁の官僚体制ではなく、おもにローマ元首の家族の奴隷や使用人に書類などを作らせていた。


共和政下のローマの政治体制は元老院政務官民会の三者によって成り立っていたとする考えが一般的である。市民全体によって構成される民会は政務官(magistratus) を選出し、その政務官たちが実際の政務を行なう。


この政務官経験者たちによって構成された元老院は巨大な権威を持ちその決議や助言に逆らうことは難しかった。政務官の選挙にも元老院の意向が一定反映され、そうして選ばれた政務官たちによって元老院が構成されたことから両者は強く結びついた。


コンスル

執政職 定員2人 任期1年 ローマ共和国首相的存在


最も重要な役職である、その命令権(インペリウム)は王の権力から受け継がれたものともいわれる。任期は1年で2名が選ばれた。政務に欠員ができたときには補欠選挙が行われるが、新たな執政官の任期は前任者のものを引き継いだ。


戦時は軍団を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握、戦場においては直接指揮を執った。民会元老院(セナートス)の召集権や議案提出権も保持した。もう一人の執政官や下位政務官の決定に対し拒否権を行使する権限が与えられていた。


帝政ローマでは共和政ローマの枠組みを乗っ取ったようなもののため、移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続けたので元首体制後も執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また元首と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。


【補足】

541年、東ローマ元首ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止されると、コンスルは名誉的な爵位の名前(7世紀にギリシャ語が公用語になって以降はギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。


ディクタトル終身独裁官

国家の非常事態に1人だけ任命 任期半年。通常時の全ての公職者は独裁官の下に置かれ、護民官の拒否権も適用対象外とされた。補佐役として騎兵隊長を独断で任命することができた。当然インペリウム(国軍の統帥権)が与えられた。

騎馬兵

戦場においては主力である歩兵を独裁官自身が指揮するのに対して騎兵長官は騎兵の指揮を担当した。執政官2名の合議によって選出され、他の政務官と異なり同僚制を取らず1人のみが任命される。他の政務官の任期が1年であるのに対し独裁職の任期は6か月と短く非常事態を打開したのち任期途中で辞任することもあった。


プラエトル(法務職)

コンスルに次ぐ公職で、インペリウム(命令権)を保有し主に司法を担当した。


アエディリス(造営職)

公共建築の管理、ローマの祭儀の管理


クァエストル(財務官)

執政官の下僚 国家財政の監督、国庫の管理を職務


トリブヌス(護民職)

「トリブス」を単位とするトリブス民会(平民会)も行なわれるようになりケントゥリア民会にも一定トリブスが導入された。当初のパトリキの支配からノビレスの支配に変わるまでにローマではパトリキとプレブスの「身分闘争」が行われたといわれている。


戦術の変化などによって重要性が増しながらも政治的発言権の小さかったプレブスの間ではパトリキに対する反発が蓄積していた。こうした下層プレブスの不満を背景に、上層プレブスはパトリキから政治参加への妥協を勝ち取りパトリキと一体化してノビレスを構成するようになった。


この過程で紀元前494年にプレブスの権利保護を目的に護民官が作られローマの政務官の一つとなった。護民職はプレブスのみが参加する平民会で選出され、他の政務官の決定や決議を取り消す権利(拒否権)を持った。また護民官の身体は不可侵とされた。後にローマ元首の一権能として吸収される


ケンソル(監察職)

国勢調査や風紀の引き締めがおもな職責、帝政期に入るとケンススの実施や風俗の監視といった任務は元首の仕事となった。(ドミティアヌスのソンケルが有名)


ローマの社会

【注意】この時代はまだ『貴族』という観念が存在していない。西ローマ帝国が滅んだあとの『旧ローマ帝国の統治組織を引き継いだ者』が『貴族』になり領民を圧する=中世ヨーロッパの始まりである。


パトリキクリア民会

ローマ社会の最上層を構成する人々でエリート家系、旧古代ローマ王の王族たちや、王政時代からの『元老院議員』一族たち。などである。


古代ローマ社会では上流階級、富を受け継ぐ者、選ばれた者、そしてノブレス・オブリージュの責務を負う者という意味合いがあった。その意味通り古代ローマではエリート層として考えられ共和政ローマ初期中期においては元老院を構成する人材を提供し続けてきた。


後代にも称号として受け継がれ中世の東ローマ帝国時代にはギリシア語の「パトリキオス」という文武高官に与えられる爵位の名称になっている。「パトリキ」という言葉はたいていプレープス(平民)という下層階級と対比して用いられる。


ノビレストリブス民会

短剣の質問

有力平民(プレブス)家族をあわせて構成されたパトリキと同等の階級。富豪


エクィテスクリア民会兵士会

疾駆

ローマ軍団将軍階級の人々の総称『兵士会』のまとめ役たち、騎兵階級。


レギオナリス兵士会所属)

百の命を握る者

ローマ帝国からのお知らせ②出陣

『ローマ市民』が主体で、政治集会『ローマ軍団兵士会』を開く層。


クリエンテストリブス民会

上流層(パトリキ)やもと雇い主主人の主従関係の『元奴隷』の家族など。貴族(パトリキ)以外でもその奴隷民の主人とは信義(フィデス)関係で結ばれていて、保護者は公私両面で隷属民を保護する義務があり、隷属民は各種の奉仕義務をもった。


ローマ社会最上層だけが奴隷を持っていたのではなく『ローマ市民』も一家族一奴隷ぐらいの割合で持っていたらしい。


プレブストリブス市民会兵士会

俗に言う『ローマ市民』である、古代ギリシアアテナイ文明が市民権の獲得を厳しく制限したのに対しローマは徐々にこの市民権を他部族・他民族、果ては解放奴隷にも与えた。

ローマ市民の権利

  • 市民集会(民会)における選挙権・被選挙権、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権(ローマ法の保護下に入る)
  • ローマ軍団兵となる権利。
  • 人頭税や属州民税(資産の10%で凡そ収穫の33%程度)も課されないが、領民より納めるべき税金の種類は多かった。

市民権の変遷

古代時代ではローマのイタリア半島(ローマ本国とされた。)に住む人々のみであった、共和政時代から帝政までローマ領内で軍団を編成できるのはイタリア本国のみと決まっていた。帝政中期からローマ全体の人々がローマ市民権が与えられるようになった。


ローマ市民権は以下の者に与えられる。

(この時代は市民層から上流層まではトーガ)

  • 正式な婚姻の関係にあるローマ人の両親より生まれた男子には自動的に与えられた。
  • 解放奴隷はローマ市民権が与えられるが、彼らは以前の主人と主従関係にありそのクリエンテスとなった。
  • 解放奴隷の子供には自動的にローマ市民権が与えられた。
  • ローマ人の軍団兵(百人隊長は除く)は正式に結婚はできず、内縁関係から子供があっても兵役期間内は子供にはローマ市民権が与えられなかった。除隊・退役後には子供には認められた。
  • ローマ市民権を持たない者でも高額な金額を出資できれば市民権を買う事ができる。
  • 入隊当時ローマ市民権を持たなかったローマ支援軍の兵は兵役期間を務め上げ退役すると世襲のローマ市民権が授与された。その子供は自動的にローマ市民権を持つ事になり父とは違いローマ市民権を持つ者から構成されるローマ正規軍への参加が可能となった。
  • ローマに対して大きな貢献をした者にはローマ市民権が与えられた。補助兵でも上位の隊長クラスになると、満期除隊を待たずにローマ市民権を得た。
  • テルマエ・ロマエ』のルシウス・モデストゥスもここの階層だろう、ただ『召使=奴隷は』持っていなかった。


ローマ領民

イタリア本国以外のローマ領内での『労働層』

『ローマ市民権』持つ資格はないがローマ軍団に守ってもらえる人々、『イタリア半島』以外のローマ帝国の属州に住む者である。

概要

  1. ローマの領土の拡大と、属州の分離・統合などにより本記事が基準とするトラヤヌス帝統治時代においてイタリア本土、皇帝領エジプト以外は40個近い属州ができた。
  2. その領域は西欧、中欧、北アフリカ、アナトリア半島、中東に至るまで広域である。
  3. 属州には収穫物に対する3分の1税や売買の度に掛かる50分の1税の他土地や建物にかけられた10分の1税などいくつかの税が課せられた。
  4. 属州内の自由市や自治市では各都市が直轄地では徴税請負人徴収を担当した。
  5. 徴税請負人はしばしば総督と結託若しくは総督の名を騙り単独で属州民を搾取した。
  6. この他シキリアなどでは穀物の強制買い付けの制度も属州民の負担となっていた。
  7. その収奪はすさまじく属州になった地域は数年のうちに疲弊し人口は数十年のうちに十分の一に減少してしまう例も共和政末期多々見られるようになった。

元首政治始まると、元首がローマ総督の専横を抑え一応安定したが。帝政中盤になると属州の統治が乱れ始め乱れからくる貧困が増え税の納めが酷になっていった、それに労働層が反乱をおこし奴隷に転じていく事が多くなったのだろう。 それとローマ自体が『領土』を拡張できなくなり『捕虜奴隷=労働力』の現地調達が得られなくなった。


解放奴隷

市民の権利を許可された奴隷

カラカラ帝のアントニウス勅令法が出たら無意味になってしまった)

  • 共和体制時代は「解放奴隷」の階級は解放された奴隷自身ではなくその息子の世代を意味していたが、帝政期には解放された奴隷自身を指すようになっていた。
  • また解放奴隷には土地を所有する権限が与えられた。
  • 開放された奴隷の息子の世代は立派なローマ市民として扱われた。
  • 解放奴隷は解放した主人の個人名と氏族名を名乗り、自身の名前を家族名として用いた。


パトロヌスクリエンテス

概要

ローマ独自の主従関係である。

  • 多くの解放奴隷は解放後もかつての主人やその一家と関係を持ち続けた。
  • 解放された奴隷は主人をパトロヌスとするクリエンテスとなった。
  • 奴隷が解放奴隷となる方法はいくつかあり、主人の遺書により解放される例もあれば生前に主人より解放される場合や、奴隷自身が主人から自由を金で買う事もあった。
  • 古代ローマにおいて奴隷を解放するには奴隷解放税を納める必要があった。

納税義務があったにもかかわらず、古代ローマの奴隷所有者は、奴隷を解放するのに熱心であった。


帝政時代の全人口のおよそ 5 % を解放奴隷が占めていた、その理由はいくつか存在する。

  1. 単純な善意。上述のとおり主人の死後に遺書により解放されるケースが多かった。古代ローマ人は、自分の遺族に多額の財産を遺す事に熱心で無く、奴隷解放という単純な善意が行いやすかった。
  2. 奴隷の労働意欲を高めるため 古代ローマの奴隷は肉体労働だけでなく、知的労働をする奴隷も数多くいた。(学者奴隷)肉体労働は暴力的な強制によって従事させる事が可能であったが知的労働を行う奴隷の意欲を高めるには暴力的な強制では不可能であった。そのため意欲を高める方法のひとつとして、一定期間労働に従事した後の解放を約束したのである。
  3. クリエンテスを増やすため数多くのクリエンテスを持つのは、ローマの貴族のステータスであったためクリエンテスを増やす確実な方法として、奴隷の解放が行われた。
  4. 忠実な部下・奴隷の監督者として ローマの貴族が農園経営、商業、その他の事業を行う際の忠実な部下として、その才能を見込んだ奴隷を解放した。特に多数の奴隷を所有する貴族の場合、その奴隷の監督者が必要であるが、それには自らも奴隷の経験がある解放奴隷が適任であった。
  5. 古代ローマでは今日でいう政府の役人(最下級の官僚)にも奴隷が使われておりそれら役人としての奴隷の上位者として、そしていわゆる政治家の忠実な部下として、解放奴隷が必要だった。

変遷

ローマ元首に即位するまで騎士階級に留め置かれ、元老院階級に友人や協力者を得ることがなかった元首クラウディウスは統治に解放奴隷を積極的に利用し、今でいう閣僚クラスにも秘書官として解放奴隷を登用した。


このクラウディウスの解放奴隷の重用はローマ帝政の官僚制を進めることとなった。

しかし五賢帝の時代にもなると、騎兵階級の昇進コースも整備され公的に官僚を供給するルートも確立されたため、解放奴隷が統治の重要な任務を担うことは少なくなっていった。


エジプト長官

なお、属州エジプトの長官には解放奴隷のみが就任した。エジプトはローマ皇帝の私領とされていたからである。またシチリアと並ぶ大穀倉地帯であり帝都ローマの食料供給を支えていたという重要性から統治者たる権威をもつ貴族(元老院議員)がエジプトを握った場合、帝位を簒奪する可能性もあったためである。


奴隷

ローマにおいては戦争に負けた集落の人々や、自身が金銭的などの破滅をした者などが老若男女とわず転落した。人格的自由はなくおもに主人の手足となって酷使される存在である。


剣闘士

ローマで一番有名な奴隷身分である、おもに罪人や捕囚となったものが命がけで戦わされる職業である。残酷名だけではなく、花形的な職業でもある。意外なのは進んで剣闘士にな利他がるローマ市民も存在した


ラティフンディウム

概要

ローマ社会伝統の奴隷労働に頼った土地と大土地経営である


国有地はローマ市民に貸し出されたがその多くは奴隷を多数所有あるいは新たに購入できる貴族が借り受けた。そして貴族は実質上の大土地所有者となった。形成期には奴隷による反乱が頻発した。全ての貴族が大土地所有者となった訳ではなく、ラティフンディウムの利が得られず没落する貴族もいれば平民でラティフンディウムに参画し経済的にのし上がった者もいる。


ローマの貴族階級は、従来の貴族層であるパトリキに従来の平民から勃興した階層を加え新貴族階層であるノビレスの形成を見る。ラティフンディウムによって安価な食糧生産が可能になり、ローマに富が蓄積した。一方で、ポエニ戦争で疲弊していた中小農民の没落に拍車をかけた。


奴隷無しの家族経営、あるいは1人か2人の奴隷を使っての自作農は安価な奴隷を大量に使役するラティフンディウムに対して経営コスト的に太刀打ちができなくなった。彼らの多くは土地を失い、無産市民としてローマに流入し、大きな社会問題となった。


コンスル職グラックス兄弟はこの問題に対処すべく、貴族による国有地の借り受けに制限を加え多くの市民に配分する事を中心とした改革を実行しようとするが元老院の反発によって挫折する。後にガイウス・マリウスは、無産市民を軍隊に吸収する事によって解決した。


さらにガイウス・ユリウス・カエサルによる「ユリウス農地法」によって救済する。

上流層とローマ市民や属州民の不平等の解消については「パンとサーカス」による所も大きい。これにより『ローマ市民』はラティフンディウムによる収益の分け前を受け取る事となり、古代ローマの社会全体として奴隷の労働がローマ市民の生活を支える構造が生まれた。


奴隷を労働力に頼ったラティフンディウムは征服地の減少に伴う奴隷供給の低下とともに経営が行き詰まった。従来、安価な奴隷を使い捨てのように酷使して多大な収益を上げてきたのだが奴隷が高価になると使い捨てる事が不可能になったのである。


そのため、奴隷の代わりに没落農民を労働力とする「コロナートゥス」の制度が代わって属州で進行する。これがやがて中世における農奴制へとつながっていく。結局農奴制が完全に消滅するのはロシア帝国が滅亡するまで待たなければならなかった。


ローマ時代の税(アウグストゥス時代)

おもな税の項目課税対象税率備考
直接税(属州税)属州民収入の10%軍役につけば免除(市民権付与?)
穀物税一律全員収穫の10%不正が入り込む余地があった
相続税ローマ市民相続物の5%10%という説もある
奴隷解放税ローマ市民解放した奴隷の相場の5%永年つかえた奴隷を解放する風習があった
独身女性への税ローマ市民2万セステルティウス以上の資産を持つ独身女性年齢に関わらず結婚するまでの毎年収入の1%他に アウグストスが創設、少子化対策などの為らしい
関税一律税関を通過する物産に対する税、税率は不定本国5%、辺境1.5%、贅沢品25%
物品税(売上税)一律すべての取引・サービス、売上に対して1%、税金に税金がかかる「雪だるま式」で、取引毎に1%徴収されるので、実質はもっと高額。軍事費に使用する目的税として導入された。

関連

古代ローマ

イタリア ローマ ローマ共和国・帝政中盤までの本国・首都


ローマ帝国元老院を諮問機関として『元首』が直接国家統治(簡潔に言うと完全独裁)したローマ共和国それでも国号は変わらず『ローマ』だった。

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