概要
第23代ローマ皇帝
(AD218 - 222.4年)
在位 | 218年 - 222年(4年) |
本名 | ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス |
元首名 | インペラトル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス |
ラテン語 | IMPERATOR CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS |
出生 | 203年3月20日 エメサ |
死去 | 222年3月11日 ローマ |
継承 | アレクサンデル・セウェルス |
妻 | ユリア・コルネリア・パウラ、アクウィリア・セウェラ、アンニア・アウレリア・ファウスティナ |
夫 | ヒエロクレス |
子女 | アレクサンデル・セウェルス(従兄弟・養子) |
父親 | セクストゥス・ウァリウス・マルケルス |
母親 | ユリア・ソエミアス・バッシアナ |
カラカラ⬅先代 | 次代→アレクサンデル・セウェルス |
人物
23代ローマ皇帝。一般にヘリオガバルス(Heliogabalus)の呼称で知られている。この呼び名は彼とその母系の一族が代々祭司を務めた出身地エメサの太陽神エラガバルに由来する。ヘリオガバルスは皇帝カラカラとの血縁を強調してカラカラ同様「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」を名乗った。カラカラ、ヘリオガバルスの属するセウェルス朝は自分たちの権力を正当化する為コンモドゥスとのつながりを捏造して主張しており、このように名乗っているが五賢帝のマルクス・アウレリウスと血統上で関係があるわけではない。
ヘリオガバルスはセウェルス朝のセプティミウス・セウェルスの外戚であるバッシアヌス家の出身で、元の名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスという。
セウェルスの長男であったカラカラが暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家は追放されるが、彼の母ユリア・ソエミアスは密かに復権の謀議を画策した。血統上、カラカラの従姉妹にあたるソエミアスは、自身が夫と儲けた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝の落胤であると主張して反乱を起こした。
戦いは帝位を得ていたマクリヌス帝の敗北に終わり、セウェルス朝の復権を名目に僅か14歳のヘリオガバルスが皇帝に凱旋即位した。しかし凱旋からローマ人に戦慄が走った。なんと即位するときも女王のようなコスチュームを着て現れたのである。
武勇伝
私生活だけではなく公務中でも女性の衣裳を着て公務をこなし重要な式典でも女装の正装で登場した。これには首都のローマ人を戦慄させたという。さらに彼は口調も女言葉だった。当時ローマで女装や同性愛はギリシアの軟弱趣味と捉えられ印象が悪かった。しかしヘリオバルスの痴態はとまらず公共浴場では女風呂に入り、痴態の参考にする為に女性を観察し、波止場で皇帝親衛隊に巨根の美少年を裸体のまま拉致させ宮殿内に強制連行しては凌辱の限りをつくし、ヘリオガバルスの「性の相手」で燃え尽きた美少年たちはエラガバル神の生贄の儀式にてペニスを切りおとされ殺されてしまった。
この犠牲者は数千に上るという。またヘリオガバルスは町の娼館で女に客を取らせ自身の宮殿で商売をさせた。この事はかの有名なカリグラも同じことを提案したが実行までは到らなかったとされる。また自らも「男娼」として男性客の相手をした。貴族社会であった古代ローマで上の階級の者が奉仕する立場に立つということは許されることではなかった。この他、後述するが、寵愛する美少年にわざと浮気現場を見せつけては、殴られるのを嬉しがっていた。何この男の娘皇帝マジ淫乱。
宗教面でも従来の慣習や制度を全て無視してエル・ガバル(エラガバルス)を「最上神」「太陽神」とするなど極端な政策を行った。
このようにヘリオガバルスはとことんまでに皇帝としての政務は疎かにし、ヘリオガバルスの母と祖母が女王的な役回りをし国家を維持するようになった。結果的にその二人に権力が集中するのでまたヘリオガバルスの評判は落ちた。
19歳になる誕生日のわずか9日前の222年3月11日、ヘリオガバルスは親族から弟格のアレクサンデル・セウェルスがローマ皇帝の地位を得る手続きに入っていることに驚愕。ヘリオガバルスは自ら皇帝親衛隊の宿舎へ向かい「アレクサンデルを捕縛せよ」と命じたが、もはや軍人たちはヘリオガバルスの性癖……もとい、醜態に忠誠心を失っていた上、兵士たちは女装少年に殺意を抱いていた、流暢なギリシャ語も癇にさわったのかもしれない。
ヘリオガバルスは兵士たちの自分への殺意を感じ取りその場を逃げようとしたが、あっけなく捕縛され当時罪人にされていたのと同じように裸に剥かれて広場へ引き回された。同時に兵士に捕まった母とともに公開の拷問(たぶんムチ打ち)をうけた後に斬首された。遺体はローマ中引き回された挙句、罪人にされていたのと同じようにティベリス川へ投げ込まれた。
結婚も経験した男の娘皇帝
さすがにいくら女装大好きオラネコ少年といえども、一応は皇帝。さすがに結婚相手はいないとまずいと思ったのかユリア・コルネリア・パウラという女性と婚姻を交わしている。コルネリア・パウラはシリアに領地を持つ有力貴族の娘なので、政略結婚説がある。しかし、夫の性癖が性癖なので、夫婦生活が長く続くはずがなかった。
次に、かまどの女神ウェスタに仕える巫女であり、「ウェスタの処女」たる女性、アクウィリア・セウェラと再婚した。本当はウェスタの処女がロストバージンした場合は、禁忌を犯した罪で生きたまま穴埋めされることになっていた。が、あの皇帝がそんなことを気にするわけがなかった。むしろ、「きっと神のように美しい子どもが生まれるぞ〜!!」とまで宣った。(ただしこのエピソードの実情については諸説あり、後述)さすがに慣習を無視し過ぎているとの批判が酷かったのか、結婚半年でアクウィリアとの婚姻を解消。
次にマルクス・アウレリウスの曾孫で、その子であり暴君として暗殺されたコンモドゥス帝の大姪という美女、アンニア・アウレリア・ファウスティナを妻として迎え入れた。が、じつは、アンニア・ファウスティナはポンポニウス・バッススと一男一女をもうけていた人妻だったが、ヘリオガバルスはバッススを処刑し、寝取った上で結婚したのだ。当たり前だが、この結婚も失敗し、離婚。その後、アクウィリアとよりを戻すも、再婚初年でまたもや離婚してしまう。
そして、ここからが彼の本領発揮。男性との結婚を強く望んだヘリオガバルスはなんと、小アジア出身のカリア人奴隷のヒエロクレス(あるいは戦車選手のゾティクス)の「妻」になることを宣言したのだ。もはや、生まれる時代を間違えたとしか言えない所業である。
ちなみに、夫とは厚化粧して妻になりきり、しかも、「ふしだらな女」と噂されるのを好んで、他の男性とも肉体関係を結ぶという高度なビッチ妻プレイをしていた。しかも、これを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打。皇帝は、殴られて自分の眼の周りがどす黒く腫れ上がったことを悦んだというSMオプション付。高度すぎやしないか。
後世の評価
上記のような事から、現在はローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。「ヘリオガバルス」という名前は今日のヨーロッパ歴史学者や識者にはよろしくない名前でだが、性癖に関しては誇張している部分があると後に判明。それでも祭儀にふけって政治を顧みなかった皇帝なのは確定的に明らかだったことはこれまでの歴史研究どおりだという。しかしソースが『ローマ皇帝群像』だったり、『ヘリオガバルス伝』をソースにした場合は、身近にたとえるなら「○○って××だって。ソースは2ちゃんねる」くらいのレベル。特に中世の歴史家たちは性的倒錯の側面を殊更に取り上げて忌み嫌ったが、性的少数者が処罰の対象であった当時の保守的な世相が影響しているのは間違いないだろう。そのため現代の研究者の見地からは、ヘリオガバルスの評価は実際よりも不当に歪められているとして擁護する見識もある。
また、ヘリオガバルスと女性の関係についても興味深い事実が明らかになってきている。巫女に対する厳しい処罰制度を廃止したり、女性の従者を大切に扱い高給や豪華な衣服・宝飾を与えるなど女性を尊重する態度を全く隠さなかった。前述の巫女との結婚についても、実際は強姦“された”罪で処刑されそうだったアクウィリアを庇ったという説がある。さらには皇帝の殺害に際して、絆の深かった女性従者らによる後追い自殺まで記録されている。古代でこれほど強い忠誠心を持った女性従者の存在が文献に残っていることは珍しく、曲がりなりにも特定の層から一定の人望を集めていたことが窺える。もしかしたら、男尊女卑が空気のように当たり前の時代において恐ろしく先進的すぎた君主だったのかもしれない…?
性転換手術を行える医師を高報酬で募集していたとも言われており、女装癖とか男の娘というよりもトランスジェンダーの一種だったのではないかと考える論者も多い。
他にもローレンス・アルマ=タデマは「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」というエピソードから着想を得て「ヘリオガバルスの薔薇」という作品を描いた。このように、彼絡みだとガセでも美味しいネタが多いので結構いろんな作品で元ネタにされる。
ただし、彼以前の暴君呼ばわりされていた皇帝達が
・ティベリウス⇒対ゲルマンの防衛線を完成させる
・カリグラ⇒アレキサンドリア市でのユダヤ系とギリシャ系の争いの仲裁に成功
・ネロ⇒原住民文化尊重による属州統治の穏健化・パルティアと平和条約締結・首都の防災都市化
・ドミティアヌス⇒首都ローマを始めとする各地のインフラ整備
・ハドリアヌス⇒国境防衛線の再整備
・コンモドゥス⇒マルコマンニ戦役の終結と防衛重視戦略による軍事費増大の抑制
・カラカラ⇒軍人の待遇改善による皇帝直卒軍の強化
と何らかの統治上の功績を残しているのに対して、ヘリオガバルスには全く其れが無い点は擁護しようがない。
現在では寧ろ名君扱いされているティベリウスやハドリアヌスは無論、ネロやドミティアヌスの功績も決して小さいものでは無い。
コンモドゥスも長年の戦役で疲弊した状況で戦争を起こさず守りに徹する程度の分別は有った。
ヘリオガバルス同様に治世が短く贅沢好きだったカリグラですら、統治下の民族同士の諍いを仲裁しなければならないと言う最低限の責任感は有していた。
対外政策や内政の面において褒めるべき点が見つからない、というのが、ヘリオガバルスが従来の歴史家たちから最悪の君主呼ばわりされる一因である。ただし、あまりに若すぎる年齢や性別違和などから近年は同情される向きもあり、歴史研究の動きによっては今後評価がまた変わってくる注目の人物かもしれない。