山形城
やまがたじょう
別名は霞城、霞ヶ城、吉字城。
平城であり、天守閣を持たない構造の城であった。
この城の最盛期は東北一の広大な敷地を持っていたものの、城主が頻繁に変更され、維持管理が行き届かない面もあり、廃藩置県の際山形県により陸軍が誘致され、ほとんどの建物が破却された(建物として残っているのは移築された御殿と門が一つであるとされる)。
現在、跡地は霞城公園となっており、石垣、堀が残されているのみである。
歴史
南北朝以前
この土地には城が築かれる以前にすでに人間が居住していたらしく、三の丸の跡地から竪穴住居が発見されている。またこの城のある土地は羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心であったと推測される。
南北朝時代〜安土桃山時代
正平9年(1354年)、室町幕府初代将軍足利尊氏の同族※である足利高経の異母弟・斯波家兼は奥州管領に任命され、奥州に下向し中新田城を拠点とした。その2年後の正平10年(1356年)、家兼の次男・兼頼は幕府の命で羽州探題として山形に入部し、翌正平12年(1357年)に兼頼は山形城を築いた。
※この経緯については高経の長男で兼頼の従兄弟である斯波家長及び武衛の記事を参照。
ちなみに兼頼の長兄・直持の子孫である奥州斯波氏は大崎氏になり、兼頼の子孫である出羽斯波氏は最上氏となり兼頼が築いた山形城は最上氏の居城となった。
戦国時代後期の当主である最上義光はこの城をもとに城を三の丸まで拡大し、城下町を整備した。関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)後の山形藩最上氏は57万石の石高を誇った。
江戸時代
しかし、最上氏は義光の治世晩年から後継争いが発生し義光の孫の最上家信の代である元和8年(1619年)に改易された。最上領は鳥居忠政(元忠の次男)・酒井忠勝(忠次の孫)・戸沢政盛(盛安の長男)・六郷政乗らに分割された。そして忠政が陸奥平から山形に転任した。忠政は伊達政宗・上杉景勝・佐竹義宣ら奥州の諸大名を監視する目的もあったとされる。この際、城の一部を改修している模様である。
鳥居氏は忠政の長男・忠恒が末期養子を認められず改易され、その後は保科正之が信濃高遠から入った。正之が会津若松に移り東北の抑えの役割が会津藩に移ってからは幕閣の政争に敗れた親藩・譜代大名の左遷地と言えるような状態になっていった。最晩年には天領になった。
最上氏時代と比べて山形藩の石高は大幅に減少し、鳥居氏時代で22〜24万石となり代を経るにつれて減っていった。水野忠邦の子の水野忠精が入部した頃にはわずか5万石しかなかった。城の満足な維持管理ができずこの城は荒廃していたと伝えられる。
鳥居氏時代から縮小化が進み幕末の水野氏時代においてはすでに本丸は更地(二の丸に御殿が存在)であり、三の丸の半分は田畑となっていた、といわれているほどであった。