概要
カルディー・フェル鉄道は、イギリスの架空の島であるソドー島に施設された線路幅800mmの架空の登山鉄道である。
作中のカルディー・フェル鉄道
歴史
カルディー・フェル鉄道が開通するきっかけとなったのは、ミッド・ソドー鉄道によるピール・ゴッドレッド地区の観光促進が要因でした。
ミッド・ソドー鉄道はカルディー・フェル鉄道の地上側の駅であるカーク・マッシャン駅と接続する計画を立てますが、工事に莫大な資金が掛かると予想されたため、計画は頓挫しました。
さて、登山鉄道を計画した時、山の地主だったピーター・バレイン卿は山腹に線路を敷く事で自然を壊してしまうのではないかと恐れたため、鉄道建設に反対し計画は数年頓挫することになります。
だが、結果としてスカーロイ鉄道のスカーロイ駅からカルディー・フェル山の途中までを繋いでいた馬車によって客を取られ、ピール・ゴッドレッドとカーク・マッシャンの人々に辛い影響が出ることになりました。
その結果、ピーター・バレイン卿は鉄道敷設反対の考えを変えることになりました。
1897年2月、カーク・マッシャンにてカルディー・フェル鉄道の着工式が行われ、ピーター・バレイン卿の長女であるエレインが芝生を刈りました。なおスポンサーとなったのは、1年前に発足したピーター・バレイン卿が議長のカルディー・フェル路面軌道・アンド・ホテル社である。
そのため、当初の計画ではカーク・マッシャン駅からスカーロイ・ロード駅を直線で結ぶ予定だったものをピーター・バレイン卿の土地の端を通って迂回する形に変更されている。
鉄道建設に関して先に開通したスノードン登山鉄道からアドバイスを貰ってアプト式ラック鉄道とすることを決定します。
鉄道工事は順調に進み、1900年3月に輸送方法と安全対策が厳しく検査され、聖霊降臨祭(春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝られる復活祭から50日目の日曜日の事である)の翌日に一般客の使用が可能となりました。
順調な営業を続けたカルディー・フェル鉄道でしたが、一般客に開放されてから一か月後、ゴッドレッドが転落する大事故が発生しました。事故の原因は2本のラックレールに石が刺さっていたことが要因ではないかと考えられるが、証明されていません。この事故で怪我人は出ませんでした。しかしゴッドレッドはかなり酷い損傷をしていて、開業したばかりのカルディー・フェル鉄道では資金面で修復は困難であったため、カーク・マッシャンの機関庫の裏に置かれ、部品取りにしました。この事故が起きたことで夏の間は路線を閉鎖し、今後事故を起こさないために厳しい処置を講じ、1901年の復活祭の月曜日に運転を再開しました。この事故以降、62年間ゴッドレッドを除く4台の機関車によって路線の営業を行いました。
カルディー・フェル鉄道は輸送量不足や孤立で悩む農民のためにシャイロー駅で貨車を扱っていて商売はうまく行っていたのですが、山岳鉄道ではよくある料金の高さに対する苦情が出るとソドー島の議会が道路を敷設し、カルディー・フェル鉄道の貨物輸送量が減少し、農民向けに使用した貨車を処分し、シャイロー駅の側線を撤去しました。
1962年、カルディーとシェーン・ドゥーイニーが大規模な修繕を行うため、いつも通り修理を請け負っているスイスに行くことになります。そこで加熱装置を持つ新設計のパトリック(旧名:ロード・ハリー)、アラリック、エリックを導入することを決定します。この3台の導入とともにアーネストとウィルフレッドは引退しました。
1964年、シェーン・ドゥーイニーが大規模修繕を終えて戻ってきます。彼が戻ってきた後、蒸気機関車が減少した影響でクロバンズ・ゲートの修理工場が多種多様な蒸気機関車の修理を可能にできるようになり、修理はすべてクロバンズ・ゲートの修理工場で行うようになりました。
歴代所有者
歴代局長
路線
カルディー・フェル鉄道はノース・ウェスタン鉄道との乗換駅であるカーク・マッシャン駅からカルディー・フェル・サミット駅を結んでいる。
路線図
所属機関車
所属している機関車は、塗装をすべて紫色に統一している。機関車の姿は大まかに開業当初から所属するグループと追加で導入されたグループの2種類に分けることが出来る。
所属客車
所属している客車は56人乗りで、すべて前方に車掌が乗って危険が無いかを見張り、緊急時には危険を知らせることが出来ます。
カルディー・フェル鉄道の有蓋客車は時期によって異なり、初期は側面の窓が無いタイプで後に完全に密封になるタイプとなります(モデルのスノードン登山鉄道などの情報から改造して今の姿になったと思われる)。
塗装は下半分がオレンジ色で、上半分がクリーム色となっている(ただし、無蓋客車は上半分が無いためクリーム色の部分が無い)。
- キャサリン
- カルディー・フェル鉄道の有蓋客車
- カルディー・フェル鉄道の無蓋客車