概要
ミッド・ソドー鉄道は、イギリスの架空の島であるソドー島に敷設されていた線路幅686mmの架空の鉄道である。
汽車のえほんとそれを原作とするきかんしゃトーマスの舞台となる鉄道の一つであるが、媒体によって設定に違いがあるので、媒体別に解説を行う。
汽車のえほんでのミッド・ソドー鉄道
歴史
時は1853年、ソドー・アンド・メインランド鉄道はキルデインからピール・ゴッドレッドの区間に路線を敷設する許可を取っていました。しかし、ソドー・アンド・メインランド鉄道の経営状況が年々悪くなっていったため、その当時は路線の工事を中止しました。そのため1870年までにピール・ゴッドレッドの人々は自分たちで鉄道を設立すべきという考えに至ります。
当初は最も単純で安価に敷設できる谷を南下するルートが好まれていました。しかし、経営状況の悪化しているソドー・アンド・メインランド鉄道が工事の許可を取っているので、路線が敷設される可能性は低かった。
そこで着目点を変え、鉱山のあるキャス=ニー=ハウィンから港のあるアールズバーグの間に敷設されたアールズデール路面鉄道に目を付けることにしました。
ピール・ゴッドレッドの人々と鉱山会社の人々は議論をし、1872年にミッド・ソドー鉄道会社を設立させました。それに際し、貨物専用だったアールズデール路面鉄道を旅客運用に適した規格に改修を行い、1874年にアールズデール路面鉄道の旅客を開始させます。この時の駅は、アールズデール、ファーカー・ロード、マースウェート、アールズバーグの4つしかありませんでした。
一方、マースウェートからピール・ゴッドレッドの区間は工事が終わるまで馬車によって接続されていました。マースウェートからピール・ゴッドレッドの区間の工事はやってみると簡単ものではありませんでした。ウルフステッド・ロード駅は海抜867フィート(264.262m)の位置にあるのだが、隣駅のキャス=ニー=ハウィン駅よりも264フィート(80.4672m)高く、直線距離で1.5マイル(2.41402km)ほどの距離の短さであった。そこでフェスティニオグ鉄道のC.E.スプーナーに相談し、ノースウェールズ・ナローゲージ鉄道で忙しかった彼は代わりに息子のエドウィンを調査に向かわせ、その結果線路の勾配を緩くするために遠回りをするルートにすることを提言し、そのルートが採択されました。しかし、そのルートを通るには4つのトンネルを掘ることが必要で、2つのトンネルを掘った時点で工事費用を大きく上回り、残りの2つのトンネルの掘る資金は不足していましたが、別の資金を削る事で節約に成功しますが、ピール・ゴッドレッドに計画された中央駅の計画やウルフステッドに接続する支線は断念され、終点はバラモッディー駅となりました。
何とか工事が終わると1880年6月に路線の開業を望みましたが、商務庁の検査で不合格となります。それに対しC. E.スプーナーは抗議をし、1880年9月に再度検査が行われ、フェスティニオグ鉄道で用いられているドアロックの実施をアールズデール駅からウルフステッド・ロード駅の区間で実施することを条件に許可が下りました。
こうして1880年10月にミッド・ソドー鉄道は開通しました。
さてミッド・ソドー鉄道の旅客の大半はアールズバーグとピール・ゴッドレッドに集中し、また鉄道の主な収入源が鉱山と言った状態でした。そのため、ミッド・ソドー鉄道は旅客量を増加させるべく観光客を呼び込む考えを持ち、旅客船会社のマン島スチームパケット社に話を持ち込みました。するとマン島スチームパケット社の反応は好意的なもので、結果として汽船がアールズバーグに夏は1日2回、冬は週に2回寄港することになり、アールズバーグはピール・ゴッドレッドの港としての立ち位置を確立します。
ミッド・ソドー鉄道はカルディー・フェル鉄道の敷設を提案し、結局別企業となります。カルディー・フェル鉄道の工事が始まるとカーク・マッシャン駅に乗り入れする計画が挙げられますが、計画は断念することになります。しかし、1900年頃にこの機会を利用して路線は延伸され、終点をバラモッディー駅からキング・オリーズ・ブリッジ駅に変更することになりました。
ミッド・ソドー鉄道は長きにわたり活躍をし、第一次世界大戦の時代も乗り越えました。
しかし、事態は大きく変わることになります。
1923年、ブリティッシュ・アルミニウム社の子会社としてピール・ゴッドレッド発電会社が誕生するとピール・ゴッドレッドの町から1マイル北に水力発電用のダムを建設し始めます。ピール・ゴッドレッド発電会社は工事機材の輸送にミッド・ソドー鉄道を検討していましたが、規格の小さいので大きい機材輸送が不可能でした。そこでノース・ウェスタン鉄道とピール・ゴッドレッド発電会社は半分づつ資金を出し、ピール・ゴッドレッド線を敷設しました。
ピール・ゴッドレッド線の開通は大きな打撃となり、ミッド・ソドー鉄道によるピール・ゴッドレッドへの貨客は減少しました。夏の観光客が来る時期を除き、旅客列車は殆ど乗客が乗らなくなり、1935年までにマン島スチームパケット社を呼ぶのを止めると観光客も乗らなくなり、1936年にキャス=ニー=ハウィン駅からピール・ゴッドレッド方面の区間を廃止します。この事もあったため会社を存続するために6台残っていた機関車の内3台が売りに出され、ボギー客車も売りに出しました。一方残されたデューク、ファルコン、スチュアートは良い状態でした。
第二次世界大戦になると輸送量が増量し、機関車も可能な限り維持がなされていましたが、軌道や物資に被害も出ていました。
鉱山も被害を受け、1945年に1つずつ閉山されていき、最後まで残っていたキャス=ニー=ハウィンの鉱山も1946年12月に洪水に遭い閉鎖となりました。洪水の原因はポンプとして使用していたスタンリーという元蒸気機関車が壊れたことが原因でした。キャス=ニー=ハウィンの鉱山の閉鎖で完全に存在意義を失ったミッド・ソドー鉄道は1947年1月廃止されてしまいました。
こうして残っていた3台の機関車は売りに出され、ファルコン、スチュアートが売れ、古かったデュークは売れなかったため機関庫に入れられました。
また、ミッド・ソドー鉄道の廃止によりノース・ウェスタン鉄道のアールズバーグ線も事実上の廃止を迎えます。
鉄道廃止後の出来事
ミッド・ソドー鉄道は廃止となりましたが、決してすべて無に帰ったわけではありません。
まず売却されたファルコンとスチュアートはソドーアルミニウム会社のアルミニウム工場の拡張工事に参加したが、1951年に用途を終えて廃棄できる準備がされていました。しかし、1952年にハンデル・ブラウン卿2世に購入された事でスカーロイ鉄道の所属となり、今でも活躍しています。
デュークは前述した通り、売れなかったため機関庫に残されましたが、1969年にファーガス・ダンカン、ウィルバート・オードリー、テディ・ボストンによって再発見され、修理されるとスカーロイ鉄道の所属となりファルコンとスチュアートと再会しました。
1964年、チャールズ・トップハム・ハット卿2世はティッドマス港の混雑緩和のためにアールズバーグ港が最適な港と判断し、その際アールズバーグ線を再開することを決定させる。その際、大きく荒れていたアールズバーグ線に対し、ミッド・ソドー鉄道の廃線があまり荒れていない事を発見します。チャールズ・トップハム・ハット卿2世はミッド・ソドー鉄道の路線が荒れていない要因が、鉱山の砂利を使用していることが分かり、他の鉄道の役員と相談した結果、ミッド・ソドー鉄道の廃線跡の一部のアールズバーグからアールズデールの区間に軌間381mmの軌道を敷き直し、1967年にアールズデール鉄道として開業します。
アールズデール鉄道として敷き直されなかったミッド・ソドー鉄道の廃線跡は歩道となった。
輸送状況
ミッド・ソドー鉄道での全盛期の輸送は以下の通りとなっている。
旅客
アールズバーグとピール・ゴッドレッドの距離は25マイル(40.2336km)で普通の列車は1時間半で移動しています。
しかし、ミッド・ソドー鉄道の誇りはマン島スチームパケット社の汽船に接続する接続列車である。この列車は狭軌鉄道としては速く25マイルを1時間15分で結びます。この高速列車のためにアールズデール工場で展望車が製作されています。また普段はボギー客車4両が連結されるが、多忙な時は客車を6両にします。
ソドー島の休日を過ごす人々はピクニックと呼ばれる列車で出かけました。ピクニックは、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に行われる復活祭から9月29日のミカエル祭までの期間に運行されていました。
列車は10:00にアールズバーグを出発しお客の要望に応じてお客の興味がある場所に止まります。帰りの列車は15:30にピール・ゴッドレッドを出発し、降りたお客を乗せて行きます。そして、17:10にアールズバーグに到着するように調整されていました。
貨物
鉱山会社にはブロックトレインと呼ばれる列車がありますが、一般の地元の貨物は遅れがちでした。当初の普通列車の車掌車は小さな荷物や小包には問題ありませんでしたが、大きな荷物には適していませんでした。そのため貨客混合列車が試されますが、乗客から荷物の出し入れにによる列車の遅れに不満が出てしまいました。
そこで25マイルを2時間30分で結ぶ列車が設定され、旅行者や業者からホース・アンド・カートと呼ばれていました。ホース・アンド・カートに乗客は3等客車の半額の金額で車掌車に乗る事も可能ですが、到着時間の保証はされていませんでした。
路線
路線図
アールズバーグ・ウェスト駅 |
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アールズバーグ・ブリッジ・ストリート駅 |
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ファーカー・ロード駅 |
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マースウェート駅 |
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アールズデール・グリーン駅 |
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アールズデール駅 |
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キャス=ニー=ハウィン駅 |
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ウルフステッド・ロード駅 |
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バラモッディー駅 |
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キング・オリーズ・ブリッジ駅 |
運用車両
ミッド・ソドー鉄道は機関車の入れ替わりが多い上、ほとんどの機関車のその後は不明とされている。
ただし、デューク、ファルコン、スチュアートはスカーロイ鉄道所属になり、ポンプとなったスタンリーは解体されたことが分かっている。
過去の運用車両
- デューク → 廃止時まで在籍し、廃業後は購入者がいなかったため放置されたが、後に再発見され修理されるとスカーロイ鉄道の所属になった。
- スタンリー → 1928年に廃車されて機関庫の裏のポンプとなったが、のちにキャス=ニー=ハウィンの鉱山に移設後に壊れ、鉱山の洪水の原因を作り、ミッド・ソドー鉄道廃業の要因も作った。後に解体される。
- ファルコン → 廃止時まで在籍し、廃業後はソドーアルミニウム会社の所属となったが、後にスカーロイ鉄道の所属になった。
- スチュアート → 廃止時まで在籍し、廃業後はソドーアルミニウム会社の所属となったが、後にスカーロイ鉄道の所属になった。
- アルバート
- ジム
- ティム
- アトラス
- アルフレッド
- ジェリー → 1936年の交通量減少に伴う売却で売却された3台の機関車の1台。売却後の詳細は不明。
- 無名の赤い機関車
- 無名の濃赤の機関車
- ファルコンと入れ替わりで廃車になった機関車 → 該当機関車は不明だが、すぐ廃車になるため交換としてファルコンが導入された。
- コーラ → 1947年のミッド・ソドー鉄道の売却でロバート・サムに購入された。
- ガートルード → 詳しい経歴は不明だが、1955年にスカーロイ鉄道所属となる。
- ミリセント → 詳しい経歴は不明だが、1955年にスカーロイ鉄道所属となる。
- ミッド・ソドー鉄道に所属していた客車 → ミッド・ソドー鉄道廃止時には少なくとも26両が在籍し、その内8両以上がクロバンズ・ゲートで修理され、スカーロイ鉄道で使用されているとされる。
- サルーン客車 → 後にスカーロイ鉄道所属となる。
その他
- アールズデール路面鉄道の蒸気機関車 → アールズデール路面鉄道時代に導入された機関車で、馬車の代わりに導入されたとされ、デュークの先輩にあたる。しかし、数が不明な上、作中ではデュークがこの鉄道で最初にやって来たとあるのでミッド・ソドー鉄道時代には所属していない可能性があるが、デュークが若い頃を話す時、年上の機関車の前では黙っていたと語る下りがある事から面識があった可能性は高い。
きかんしゃトーマスでのミッド・ソドー鉄道
路線の違い
作中にミッド・ソドー鉄道の地図が登場するが、路線が原作のと大きく異なる形をしており、またオリジナルの駅が追加されている。
所属車両の違い
原作では、多くの機関車が所属しているのだが、模型を新規で作るのは資金面で厳しいため、スカーロイ鉄道の機関車がモブとして登場したり、スタンリーの代わりにスマジャーというレニアスの模型を流用したキャラクターが登場している。