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概要編集

日本のグループ・サウンズを代表するバンド

シーサイド・バウンド」、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など多数のヒット曲がある。

事務所の売り出しによりアイドル的な人気を誇ったが、メンバーのアーティスト指向との齟齬により個人活動が主となっていった。


略歴編集

1965年人見豊(ドラムス)、岸部修三(ベース、現:岸部一徳)、森本太郎(リズムギター)、高橋克己(リードギター)の4人が京都市でサリーとプレイボーイズを結成。ザ・ベンチャーズの影響でエレキインストを演奏していたが、日本での人気がベンチャーズからビートルズに移ると専属のボーカリストが必要となり、ジェット・ブラザースのバックバンドのザ・サンダースから沢田研二を引き抜く。
1966年ファニーズと改称。大阪で人気となるが満足せず上京の機会を狙い、当時寺内タケシとブルージーンズのボーカリストだった内田裕也の紹介で渡辺プロダクション(現在のワタナベエンターテインメント)に入社する。テレビ初出演の際、フジテレビのディレクターだったすぎやまこういちがバンド名をザ・タイガースに改称させ、リーダーも人見から岸部に交代させた。内田は人見を瞳みのる、高橋を加橋かつみに改名させ、岸部修三の読みも「しゅうぞう」から「おさみ」に変更、さらに沢田にジュリー、加橋にトッポとニックネームを付けた。(岸部のサリー、瞳のピー、森本のタローは以前から)
1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」でデビューするもメンバーはモンキーズ調の当曲に乗り気ではなく、あまり売れなかったが、5月5日発売のセカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気が爆発する。渡辺プロはこのまま彼らをアイドルとして売り続けたが、加橋はこれに嫌気が差し1969年に脱退、後任に楽器経験のない一徳の弟の岸部四郎岸部シロー)が加入する。
1970年グループ・サウンズの人気に陰りが出て、12月7日に解散を表明する。
1971年1月24日の日本武道館で解散コンサートを行う。瞳は京都に帰り芸能界を引退して高校へ復学。
1977年瞳が慶應義塾大学を卒業して慶應義塾高校の教員となる。他のメンバーは芸能界に残る。
1981年有楽町日劇が取り壊されるのを惜しみ、内田が「サヨナラ日劇ウエスタンカーニバル」を企画。1月22日~25日にかけて往年のグループ・サウンズが再結成され、一徳、森本、加橋、沢田の4人も最終日に出演、四郎も1曲だけ参加。
1989年紅白歌合戦に至るまで散発的に再結成されるが、瞳は不参加。
2003年一徳と沢田が作詞、森本が作曲した「Long Good-by」(ボーカルは沢田版と森本版がある)が発表され、のちに瞳の元に届き、2008年に瞳はこの曲を作った3人と、翌年には加橋と再会。
2010年瞳が定年まで2年を残して慶應義塾高校を退職。
2011年瞳が芸能界に復帰。いよいよ再結成と思われたが今度は加橋が難色を示し、結局沢田のコンサートに一徳、森本、瞳の3人がゲスト出演するに留まる。
2013年1月6日の「沢田研二正月ライブ」で、ついにオリジナルメンバー5人が揃う。12月3日に日本武道館でツアーが開催され、最終日の12月27日の東京ドーム公演では四郎も出演した。歴代メンバー6人全員が揃ったのはこれが最後。
2020年8月28日岸部シローが死去。

関連タグ編集

グループサウンズ 沢田研二 岸部一徳 岸部シロー 森本太郎 瞳みのる 加橋かつみ

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