正しくは『ピンク・レディ』(黒丸が入る)。
- お酒の一種。ジンベースカクテル。グレナデン(ザクロ)シロップと卵白を使う。いわゆるレディーキラー(女の子を酔わせる)カクテルの一種にも数えられる事がある。英国で開発されたレシピであり、名称は同名のミュージカルにちなむ。件のミュージカルの主演女優に捧げられたレシピ。
- 日本のアイドルデュオ。70年代後半に伝説となった、スーパーアイドル。本項目で詳述。名称の由来は前述のカクテルからプロデューサーが名付けたもの。
解説
メンバー
代表曲
「ペッパー警部」
「S・O・S」
「渚のシンドバッド」
「UFO」
「サウスポー」
「透明人間」
など。
来歴
デビューまで
共に中学・高校での同級生で、1973年にヤマハ音楽教室が主宰したオーディションに合格。
特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事となり、当時の講師の勧めもあり「クッキー」というデュオとしてのデビューを目指した。
当時はオーバーオールの似合う純朴な田舎娘風のビジュアルであった。
しかし伝説のオーディション番組「スター誕生!」において、とあるレコード会社の社員が当時の社の方針に逆らいデビューへの道を拓くと、一転して派手な衣装と奇抜なダンスを見せるデュオに変貌した。
当時似たような路線の歌手として「山本リンダ」が居たが、彼女が妖艶な「オトナ」の女を意識していたのにたいし、彼女らは健康的なお色気を振りまくタイプで差別化に成功している。
ヒットの理由
「花も恥じらう年頃の娘が、大股開きも厭わない派手なアクションを駆使して歌って踊る」というコンセプトは、全国のおじさん&男子学生の度肝を抜いた。
鍛え上げられた彼女たちの歌唱力は確かなもので、激しいダンスを踊りつつも音揺れや息切れを見せず、裏声も一切使わず(あえて裏声のみで歌ったラスト・プリテンダーを除く)、よく通る美声を腹の底から張り上げ、歌い通してみせた。
なおかつ、ピンクレディーの曲は男女の恋愛になぞらえつつも、驚嘆すべきテーマの広さを持っていた。シンドバッドに多羅尾坂内、U.F.O.、王貞治にモンスター、果ては透明人間まで登場。愉快な歌詞と、嫌味のない明るいキャラクターは小学生の女の子たちも虜にし、彼女たちはこぞって二人組を組み、ミーちゃんケイちゃんの真似をして歌って踊った。父ちゃん母ちゃんはもちろん、可愛い孫娘たちが歌って踊れば、当然じぃじやばぁばも注目する。結果、ピンクレディーは世代を問わず、日本中の老若男女から愛されるアイドルとなったのである。
絶頂期
絶頂期の彼女らは誇張表現抜きで「スーパーアイドル」と呼ぶにふさわしく、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)という当時の最高記録をマークしたのを始めとし、テレビで見ない日は無いと言う超過密スケジュールだった。高速道路で渋滞に巻き込まれた際には、並走する一般道にタクシーを呼び、緊急用の梯子型の階段を使って移動したという。
その人気は驚異的であり、当時を知るファンによると「老若男女関わらず、誰もがピンクレディーの歌を歌えた」し、ファンのコアだった当時の小学生たちは、アラフィフとなった今でもダンスの振り付けを体が覚えているという凄まじさである(「探偵!ナイトスクープ」の調査で実証済み。)。
アイドルマスターの世界で言えば、日高舞クラスと言えば通じる人には通じるだろうか。
あまりにも人気が出過ぎたために新曲の練習をする暇も限られ、ある曲に至っては出番の数分前に振付を教えられたという事すらあった。
毎日の睡眠時間は平均45分、3時間あればいい方で、1日の境が判らなくなってしまうほど忙しかった。疲労は頂点に達し、歌い終わると文字通り動けなくなってしまうため、誇張ではなく抱き抱えられるようにして移動していた。
そんなある日、ケイは盲腸炎に罹って入院、その間はミーが一人で各番組への出演をこなしていた。病室のテレビでその様子を見たケイは、絶叫に近いようなファンからの応援ぶりを見て、初めて自分たちの人気がどれほどのものかを実感した。ファンの期待に応えるため、ケイは完治せず傷が開いたまま胴体にラップを巻いてステージに立ったという。
それでいて、二人は印税契約を結んでいなかったため、この絶頂期にあっても月給は僅か20万円程度。たまに屋台で食べるラーメンが御馳走だったと、後年ケイは述懐している。
- ちなみに、烏龍茶の日本での火付け役になったのもピンクレディーであり、それまでは知名度のなかった烏龍茶が国内に広まった。彼女達の体調を心配した関係者が紹介したのがきっかけであるという。これを受けて、サントリーが世界初の缶飲料としての烏龍茶を発売した。
アメリカ進出・人気急降下、そして解散
意外と知られていない事実だが、彼女らはアメリカ進出も果たしており、人気番組の準レギュラーすら獲得している。派手なダンスと明るく健康なお色気は、アメリカ人の感性にも共通する魅力だった。実際に2000年代に入っても、この当時の彼女たちを覚えている人は多く、youtubeには彼らからのコメントも散見される。
しかし日本国内のそれより、更に強調されたセックスアピールからイメージを損なうと判断され、ほとんど報道されることは無かった。
このアメリカ進出で出来た日本での空白期間が、ピークを過ぎていた熱狂をさらに醒めさせてしまう。ターゲットをデビュー当初の男子学生から小学生の女児に移していたことも、後発のアイドルにシェアを奪われ、レコードの売り上げを落とす原因となった。
また、紅白歌合戦への出場を辞退し裏番組に出演したことからNHKとも溝が発生した(紅白歌合戦が当時国民的番組であった事も手伝い、ピンクレディーが出演した番組は視聴率的にも惨敗で終わっている)。
さらに事務所側と制作側との諍いも発生し、これらの要因が重なった結果、人気は急降下。丁度ケイの結婚話が進んでいたこともあって、1980年9月1日に二人そろって解散を宣言。1981年3月31日、後楽園球場でラストコンサートが開催された。
当日はあいにくの雨模様となったうえ、空席も目立つ寂しいものだったが、応援に駆けつけてくれたファンのために二人は歌い通し、互いを抱擁して健闘を称えあった。
それでも「ピンクレディー解散」の話題は、その日の報道番組で取り上げられるなど、彼女たちの残した影響の大きさと、その終焉の寂しさを感じさせる幕切れであった。