ルワンダの民族構成
ルワンダの民族構成は、フツ族が84%、ツチ族が15%、そして1%の少数民族トゥワ族となっている。
フツ族は農業、ツチ族は牧畜を営んでいた。
前史
フツ族とツチ族は民族性や宗教、言語も同じで、18世紀までは両者に因縁もなく、両民族で協力もするし、結婚もするなど平和に共存していた。だが、19世紀に欧米の列強により、ルワンダは最初はドイツに支配され、ドイツが第一次世界大戦敗北後、ベルギーの植民地となる。この時に、ベルギーは肌の色の薄い方が偉いという主義を掲げ、肌の色や鼻の高さなどを基準にIDカード制を用いて両民族を隔離、ツチ族のみが教育、参政権を得ることができるという社会構造を作ってしまい、フツ族は排除され差別対象になってしまう。これが20年ほど続き、ツチ族へのヘイトは集まっていった。第二次世界大戦後、アフリカで独立の機運が高まり、ベルギーは差別を止めて両民族を平等にしたが、1959年にフツ族の権力者がツチ族の若者によって襲撃される事件が発生。襲撃された権力者は死んでいないのにもかかわらず、若者によって殺害されたと誤報が流れ、フツ族は報復としてツチ族の指導者を殺害し、家に放火した。その後もさらに互いに殺し合うようになってしまった。1961年に大統領制になり、グレゴワールが就任。この政権はツチ族に対して迫害を行い、この時点ですでに2万人ほどが殺害され、20万人がウガンダに難民として逃げていった。1973年にフツ族のジュベナールが無血クーデターで政権を略取し、両民族にできた因縁を無くすことに尽力し、過激派などを取り締まった。これで一旦収拾がついたが、難民問題は解決できず、60万人ほどまで難民が増えてしまい、その後バビャリマナ政権になっても依然解決されない一方で、この頃ルワンダはコーヒーなどを産業とし、当時のアフリカではそこそこ豊かな国となった。これにより人口過剰となり、1980年代後半にコーヒーの価格低下や経済政策の失敗により貧しい国に転落してしまう。これによって両民族の因縁が再び激化し、互いの農地を奪い合うなどのいざこざに発展していった。一方その頃ウガンダに逃げた一部のツチ族は国連から支援をもらい、徐々にウガンダ社会に溶け込んでいったものの、ウガンダで「ルワンダ人に職を奪われるのではないだろうか?」という考えが生まれ、フツ族への民族差別が始まった。当時のオボデ政権はルワンダの言語を話せる人々を迫害。その結果、1987年にルワンダ愛国戦線(RPF)を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになる。そして1990年にはルワンダに帰還し、内戦が勃発した。この頃から、ツチ族へのヘイト行為が過激さを増していき、当時の政権は虐殺を教唆するような素振りだった。3年後の1993年8月に和平合意が結ばれたが・・・。
ルワンダ虐殺
和平協定が結ばれた翌年の1994年4月6日に、フツ族の大統領バビャリマナ大統領の飛行機が何者かによって撃墜され、大統領は死亡。これをツチ族の犯行とにらんだフツ族の民兵によって、ツチ族への復讐が始まった。まず民兵たちは一般人を勧誘したり、広報を流してフツ族を集たり、銃火器を備蓄したりするなどかなり用意周到であり、まるで虐殺をあらかじめ計画していたかのような素振りだった。そして、大統領暗殺からまもなく、老若男女問わずツチ族と、ツチ族を匿った穏健派のフツ族に対しての虐殺を始めた。殺された過半数は銃などの近代武器を使わずに、鉈や斧を用いてじわじわと苦しめながら殺すという残忍な手段を用いた。他にも例として、「身長を適切にする」という名目で手足を切断し放置、酢で作ったプールに押し込んで溺死させたり、ツチ族に対して自分の家族を殺すように強制した。さらに女性に対して強姦などの凌辱を行い、中にはツチ族の夫がいるというだけで強姦された女性もいた。中には金銭を渡して、「楽に死なせてくれ」と懇願する者もいた。
この虐殺によって多くの命が奪われただけでなく、拷問によって身体を不具にされた者、強姦によって望まぬ子どもを産んだ者などたくさんの被害者が生まれており、
他にも一家の大黒柱を殺されて経済的に困窮し、強姦されたことで嫁の貰い手が付かないと売春に身を窶す女性が続出したり、
身体に傷がなくとも心に深い傷が残った者がツチ族はもちろんフツ族にも多くいたりと、虐殺の終焉後も多くの人間が苦しんだという。
また、残り1%のトゥワ族も両族から差別対象にされ、虐殺に巻き込まれたり、ツチ族に屈辱を与えるためツチ族に強姦をさせたられたりしていた。
欧米諸国は何をしていたか
当時、アフリカではソマリア内戦、ヨーロッパではユーゴスラビア内戦が起きており、それに手一杯でこのような小国への関心は薄かった。
当時のフランス大統領、フランソワは「ああいった国では、虐殺は大した問題ではない」と述べている。
だが、フランスはなんとフツ族に対して援助を行っており、間接的にこの虐殺を支援していた、とも取れる。
その後
最終的にRPFが7月中旬にルワンダを制圧し、国連が介入するまでに、3カ月間で80万~117万人もの人々が虐殺によって命を落とした。これは単純計算すると1日に8000人~1万人以上、約7秒~11秒に1人が殺された計算になり、どれだけ凄惨な虐殺だったか想像に難くない(ちなみに、過去に起こった大量虐殺の例として有名なナチスによるホロコーストでは、1933〜45年の12年間で約600万人が、ポル・ポトによるカンボジア大虐殺では1975〜79年の4年間で約200万人が死亡したが、いずれも一日に約1300人前後が死亡した計算になる)
このRPFはかなりの強さを誇り、ツチ族や穏健派のフツ族が加わり勢力を拡大、あっという間に首都を制圧、虐殺を教唆した政権を崩壊させた。報復を恐れたフツ族は周辺諸国に逃亡し、難民となった。約10年前にほとんどが戻っている。
ルワンダはその後発展を遂げたが、慢性的な人口過剰、近隣諸国の政情不安が今後の課題となっている。カガメ大統領はお互いの民族の溝を埋めるために努める一方で、憲法を変えながら大統領の座に居座っており、独裁者気質が増している。しかしここまでルワンダを復活させた功績から、国民からの支持率は桁違いに高い。