ロバート・ファルコン・スコット/Robert Falcon Scott(1868年6月6日~1912年3月29日)
軍人として1901年から1904年にかけて、イギリスの第1回南極探検に参加し、1902年12月30日、アーネスト・シャクルトンらと共に南極点まで733kmの地点に達した。帰国後、イギリス国内で高評価を得る。
1909年、予備役に転じ、南極点到達を目標に資金集めに奔走する。
1910年、寄付金と政府の助成金で遠征隊を組織し、テラノバ号で南極大陸へ向かう。
1911年1月18日にケープ・エバンス基地を設営し、最初の1年を南緯80度までに一連の補給所を作ることと、地質学調査に充てた。
11月1日、南極点へ向けて出発。
1912年1月17日、スコット隊は南極点に到達したが、ノルウェーのアムンセン隊が既に到達(1911年12月14日)した後だった。
南極点からの帰路でスコット隊は猛吹雪に見舞われ、凍傷で衰弱し、隊員は次々と死亡し、前年に設置した補給所まで18kmの地点で動けなくなり、3月29日付の日記を書き残した後、3人の隊員と共にテント内で死亡した。
死後
スコットはその死後に名を上げている。後に彼らの遺体が発見されたのだが、その携行品の中には、アムンセンが南極点に置いてきた手紙があった。
これはアムンセンが、「自分達が帰路に死亡した場合」の為、南極点到達の証拠と、その事を伝えるよう後の人に託す内容の手紙であり、スコットがこれを持っていたのは自らの敗北を認めた事に外ならず(南極点でこの手紙を見つけた後、早々に処分すれば隠滅はし得たがそれをしていない)、その気高さが悲劇的な最期と共に人々の心を打ったのだ。
この事もあり、後にアムンセンは訪れた世界各地で歓迎されたが、イギリスを訪れた時は歓迎ムードは薄かったという。