概要
日本初の軽巡洋艦として進水された。
艦名の由来は長野県の諏訪湖から太平洋に向かう天竜川で、地元ではたびたび氾濫をおこす有名な“暴れ川”。「大天龍」「暴れ天龍」と呼ばれ、治水の整った現在でもまだまだやんちゃ。
完成当時は、本人が自慢するように世界基準越えの高性能艦(英国製の同クラスの軍艦を凌ぎ、国内でも筑摩型防護巡洋艦{筑摩さんの先代艦}を2倍以上付き離す戦力)だったが、小柄な船体が災いして改装の余地も無くどんどん後輩に性能を超され、昭和16年には戦艦大和の随伴防空艦への改修も検討された……が、やはり拡張性の無さが災いして計画のみに終わっている。
搭載している艦本式缶(ボイラー)も、重油・石炭混燃式という代物である(重油920t、石炭150t)。
ただし、天龍型軽巡洋艦が計画された当時は金剛の基礎となった戦艦レシャド5世も混燃式であり、後に生産された5500t型軽巡、特に川内型軽巡洋艦は海軍全体の重油消費量増大を見越して混燃ボイラーの比率を高めている為、決して艦本式缶のせいで時代遅れだったというわけではない。なお、同じコンパクトボディでも更なる鈍足艦はいる。
最初は第二水雷戦隊旗艦に就き、旗艦を降りた後も第一次ソロモン海戦等に参加し活躍した。
1942年12月18日、ニューギニア島東海岸にて、マダン上陸作戦支援の為、輸送艦を護衛している最中にアメリカ海軍の潜水艦・ガトー級潜水艦7番艦のアルバコアの雷撃(流れ弾)を受け沈没。死者20人。
日本海軍初の潜水艦による軽巡洋艦喪失となった(太平洋戦争における日本の軽巡の戦没第一号は由良)。