大日本帝国海軍が第一次世界大戦後に初めて建造した軽巡洋艦の艦級で同型艦は2隻。
解説
八八艦隊計画で作られた3,500t型軽巡洋艦で日本海軍における近代的軽巡洋艦の第一陣である。
本型は1915年(大正4年)に水雷戦隊旗艦として2隻が計画された。
主に艦隊の前方に進出して偵察・索敵任務、および水雷戦隊の嚮導艦として基本設計は近代的軽巡洋艦の始祖とされるイギリス海軍のアリシューザ級軽巡洋艦及びその後継であるC級軽巡洋艦を参考にした堅実な物として設計された。
他国では大型の駆逐艦を嚮導駆逐艦と称し水雷戦隊旗艦とすることが多かったが、日本海軍では軽巡洋艦をこれに当てたのである。
そのため特に駆逐艦並みの高速を要求され、その最大速力33ノットは当時列強のどの軽巡洋艦よりも速かった。世界基準越えの性能というのはまんざら間違いではなかったのである。
ただし後に登場した睦月型駆逐艦は37ノット、特型駆逐艦は38ノット、艦隊型駆逐艦の傑作艦である甲型駆逐艦(陽炎型及び夕雲型)は35~36ノットという速力を誇っていたため、これらの駆逐艦に置いていかれてしまい水雷戦隊の旗艦には向かなくなってしまったのである。
1917年(大正6年)の八四艦隊計画でも6隻計画されたが、本型は艦形が小型で居住性に難があったために艦形を大型化した5500トン型軽巡洋艦(球磨型、長良型、川内型)に計画は改められて結局2隻のみの建造となった。
小型かつ高密度な設計ゆえに改装の余地がほとんどなく、後続の軽巡が竣工するとあっという間に時代遅れになってしまった。
主砲・魚雷を撤去して高角砲を搭載し大和型戦艦の護衛用の防空巡洋艦に改装する計画もあり予算も組まれたのだが、日米開戦により計画はお流れとなってしまった。
なお、当初ロンドン海軍軍縮条約にのっとり、天龍型は代艦が建造され廃艦となる予定だったが、その延長をめぐって決裂したため条約切れ以降の竣工となる新型“軽巡”は当初から“本来の姿”で完成することになった。利根型である。このため軽巡が不足することから天龍型の廃艦も撤回された。
水雷戦隊の指揮には向かない事から、日米開戦時は天龍型のみで第十八戦隊を編成していた。
ただし龍田は天龍亡き後の1943年4月に、練成部隊の第十一水雷戦隊旗艦となっている。
配下には第六駆逐隊(第三次ソロモン海戦で戦没した暁除く)が配属され、島風や早霜も就役当初は第十一水雷戦隊に配属されていた。
最早この頃になると、天龍型の性能が不足しているなどと言ってる場合ではなかったのである。
天龍戦没は1942年12月、龍田戦没は1944年3月で、どちらも潜水艦による雷撃で沈没している。