概要
日本の明治から昭和にかけて活躍した映画技師であり、「発明王」の異名で世界的に知られる発明家であるトーマス・エジソンの助手であったことで有名である。
経歴
1884年(明治17年)4月9日、神戸生まれ。山口県の大島商船学校を卒業後、日本海軍の予備少尉に任官され、イギリス商船に機関士として(或いは商船学校の卒業遠洋航海で)乗船したが、アメリカのニューヨークに停泊している際に急性盲腸炎となったため下船し、現地で電気技師として働いて過ごす。
その後、勤めていたアメリカの総合電機メーカー『WH(ウェスティングハウス・エレクトリック)』の技師長の紹介によりエジソンと出会い、以降はエジソンの研究所で6年間に渡り彼の助手を務めた。
その間に、渋沢栄一を団長とした渡米実業団を出迎えて写真撮影をしたこともあったという。
1914年に帰国し、キネトフォン(発声映写機)の専任技師としてエジソンのキネトフォンを使用した、松井須磨子の歌謡曲を題材とした映画『カチューシャの唄』の制作し、同年の8月1日に浅草日本館において上映するなど映画技師としても活躍している。
後年は、神戸で鉄工所を営み船舶の修理などで財を成したが、戦時色が強まるにつれて事業の縮小を余儀なくされる。
これは渡米経験があり、彼自身が予備役とはいえ海軍将校であったことや、師であったエジソンが設立した総合電機メーカー『ゼネラル・エレクトリック』がアメリカ軍と深い繋がりがあったことから、スパイ嫌疑がかけられ長らく憲兵隊による取り調べを受けたことの影響とも言われる。
1945年には、皮肉にもエジソンの母国である米国の軍による神戸大空襲によって戦災死し、彼から譲り受けた個人的な品や発明品の多くが焼失してしまった。
人物
エジソンは岡部について、彼の誠実な働きぶりと人間性に感嘆し、「自分の子供たちでさえ、私の周りから、しょっちゅう金品を勝手に持ち出すのに、岡部はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることは決してない」と語っていたという。
また、勇敢で腕っ節も強く、エジソンが街中で暴漢に襲われた際に、柔道で暴漢を倒して彼を救ったという逸話もある。
エジソンが親日家だったのはこうした岡部との交流が大きかったとされており、エジソンが没した後に日比谷公会堂で行われた彼の追悼会にて、追悼会長だった金子堅太郎曰く、日露戦争の戦費調達のために訪米した際にも、エジソンから秘密研究室で働く岡部を紹介されたという。