概要
文政12年5月5日(1829年6月6日)- 文久2年8月10日(1862年9月3日)
幕末に活躍し、囲碁における、近代の布石の基礎を築いた天才棋士。
文政12年、父・桑原輪三と母・カメの次男として備後国御調郡三浦村大字外之浦(現・広島県尾道市因島外浦町)に生まれる。幼名虎次郎。
巷間では『本因坊秀策』の名で知られるが、正式に継ぐ事無く亡くなった為、正確には『本因坊跡目秀策』である。
3・4歳の頃は、碁石を与えればすぐに泣き止んだといわれる逸話も残る。
5歳の時に碁好きで知られた地元の富裕な商人・橋本吉兵衛と対局し、碁才を見出される。一年後には近隣に最早敵う者無く、天才児の名を恣にした虎次郎は、吉兵衛の紹介で三原城主・浅野忠敬にお目見えし才能を認められた。
その後虎次郎は竹原の宝泉寺住職・葆真和尚を師として腕を上げ、忠敬の推薦で碁の家元筆頭・本因坊家に留学すべく9歳で江戸へ上る。当時の名人碁所(官制の囲碁界の最高権力者の称号)であった12世本因坊丈和に弟子入りし、安田栄斎と名を改めた。幼童とは思えない妙技に感動した丈和は『一五〇年来の碁豪』と称賛したと言う。一五〇年来とは、江戸前期の天才棋士・本因坊道策以来という意味である。当時の同門には後に14世本因坊の名跡を継ぐ9歳年長の芸兄土屋秀和、丈和の長子で後に家元四家の一つ、井上家を継ぐ水谷順策、石見の才人・岸本左一郎らがいた。
11歳で初段の免状を得て以来、順調に昇段していった虎次郎改め栄斎であるが、18歳の頃には才能品格ともに言う事無しとして、本因坊家の跡目を打診される。20歳の時に師・丈和の娘、花と結婚。この時新たに師匠となった兄弟子・秀和と、13世を継いだ本因坊丈策から一字ずつ貰い、秀策と名乗るようになる。
「御城碁十九連勝」や「耳赤の一手」、「秀策流」等数々の伝説を築き上げ、現在でも歴史上最強の棋士の一人に挙げられる。
また謹厳実直、高潔な人格者としても評判高く、有名なエピソードに、
・名古屋の棋士・伊藤松和が当時9歳の秀策と打つ機会を得るが、その器量を疑い“座敷ホイト”(ホイトは乞食を意味する)と暴言を吐く。しかしいざ対局してみるとその素晴らしい碁技に感服。後に本因坊家の跡目に出世した秀策に松和が詫びると、「あの時の言葉が自分を発奮させたから今の自分がある」と逆に感謝し松和の顔を立てた。松和がこの後熱心な秀策ファンになったのは言うまでもない。
・跡目の話が持ち上がった際、浅野家への忠義を貫く秀策はその話を断るという、碁打ちとしては前代未聞の行動に出る。諦めきれない師家は浅野家に働きかけ、跡目にしたい旨の伺いを立てる。当然浅野家は歓喜し一も二も無く承諾した為、ようやく跡目になる運びとなった。
等が挙げられる。
しかし1862(文久2)年に江戸で大流行したコレラに本因坊家(以下、坊家)の人々が倒れ、秀策は危険を顧みず家族や門人達の面倒を見た。その結果自身も感染。前年に逝去した実母の供養の為極端に食を細くし、体が弱っていたのも祟った。それから程無くして秀策は病没。34歳という若さであった。秀策の献身的な看病により、坊家でのコレラによる犠牲者は秀策1人だけだったと言う…。
幼い頃から秀策を知り、彼に期待を掛けていた秀和は『ただ夢の心地に御座候(悪夢を見ているかのよう)』と悲嘆に暮れたと伝わる。
秀策亡き後有志によって顕彰碑が造られ、明治には元禄の名棋士・道策、師・丈和と並ぶ棋聖(碁聖)と仰がれ、絶大な人気を誇った。2003年には故郷因島の名誉市民に選ばれる。『坐隠談叢』『敲玉余韵』等の史料は現在に至るまで偉容偉業を後世に伝えている。現代でも彼の棋譜を並べるプロ棋士は少なくなく、囲碁界に与えた影響は多大となった。
その後
秀策亡き後の後継は秀策に次ぐ棋力の持ち主であった村瀬秀甫、その秀甫に次いで強かった秀策の義弟中川亀三郎が有力だったが、いずれも継ぐことを認められず、まだ14歳の少年だった師・秀和の長男、秀悦が後継となり、坊家は分裂してしまう。実力主義だった坊家では初の実子相続であった。
時代は折りしも幕末に差し掛かり、世の荒波と共に囲碁界そのものにも危機が迫っていた。
秀策の死から二年後の1864(元治元)年には御城碁が廃止、棋士達の対局頻度も激減する。1867(慶応3)年に大政奉還が成り幕府が瓦解すると、幕府からの俸禄で成り立っていた棋士の生活には大打撃となった。
69(明治2)年に坊家は屋敷の引き払いと家禄の減石を通達され、坊家(=土屋家)は赤貧に喘ぐこととなる。更には貸家にしていた屋敷が火災により全焼、73(明治6)年には秀和が困窮のうちに亡くなり、この過酷な状況の中で精神的に追い詰められた秀悦は遂に発狂してしまう。
絶望的な坊家を他所に、坊家を追われた秀甫は、盟友亀三郎や坊家の仲間達、他の家元の有力な棋士や各地の有志を募って近代初の囲碁結社『方円社』を旗揚げ。女性へ棋士の門戸を開放し、海外への囲碁の普及に尽力、史上初の郵便碁を実施するなど、維新の動乱で沈静化していた囲碁界の再起に努めた。
坊家も秀悦を当主の座から下ろし、家元四家の一つ、林家に養子に出されていた秀和の次男・秀栄が新たに当主となり、自由と革新を目指す方円社に対し、伝統と格式を重んじる家元の代表として方円社に立ちはだかる。図らずも方円社に対するライバルとなったことで、秀和の子らで最も強かった秀栄の碁は世間の耳目を集めた。
1884(明治17)年に坊家と方円社は一旦和解し、秀栄は本因坊の座を秀甫に譲ったものの、就任後僅か3ヶ月で秀甫が急逝。享年48歳、道半ばの死であった。これにより和解はご破算となり、20年以上も坊社対立の時代は続く。
しかし、1923(大正12)年に関東大震災が発生すると未曾有の災害を前に囲碁界も一丸となるべしとの機運が高まり、1924(大正13)年には坊門の棋士達や方円社麾下の棋士達が集い(碁界大合同)、現在にも続く日本棋院となる。
秀策が自らの命を懸けて救った人々はその想いに応え、衰退していた囲碁界の未来を切り拓く人材となっていったのである。
余談
- 碁の手腕ばかりでなく、書や漢学にも通じており、現在因島にある本因坊秀策記念館には彼が遺した書や漢詩が展示されている。
ヒカルの碁における描写
「佐為 すまない」
ほったゆみ原作の少年漫画『ヒカルの碁』では、物語の鍵である藤原佐為が、主人公・進藤ヒカルより以前に憑いた依代という設定で登場しており、囲碁関係者以外にも一躍存在が知られるようになった。
佐為と出会ったのはヒカルより幼い年頃で、佐為が生前使用していた碁盤に彼の涙の跡を見つけたことから佐為に取り憑かれた。子供の時から側にいた為か、佐為はもっぱら呼び名を幼名の虎次郎で通しているが、実際は年齢や立場が変わる毎に改名している。
作中では佐為の口から語られる程度で詳しく人物像が描写される事は無かったが、佐為曰く『賢くて本当に良い人』。佐為には打たせてくれたのはその優しさからであるとされ、ヒカルには佐為の力を見抜いたから彼に打たせることに価値を見出したとされるが、何故自身は打つ道を選ばなかったのか、その真意は闇の中である。
関連タグ
天野宗歩…同時代に活躍した将棋界の棋聖。道策と同じ“実力十三段”を称された最強の指し手だったが、性格は秀策とは正反対に不品行が目立つ男だったという。