永正伊勢宗瑞の乱
えいしょういせそうずいのらん
伊勢宗瑞は長享の乱を受けて小田原城を攻略し相模へと進出した。その後1505年3月、長享の乱は扇谷上杉氏の事実上敗北によって終焉した。
韮山伊勢氏と扇谷上杉氏の同盟は破棄され関東は一旦落ち着きを見せた。しかし、宗瑞は甲斐の武田氏や山内上杉氏などの勢力を拡大していた大名に対抗するため、両上杉氏と対立して相模や武蔵の侵攻を開始する。
長享の乱が収束した関東であったが、越後を中心に再び大乱が巻き起こった。
当時の越後守護代長尾為景が越後上杉氏当主上杉房能を殺害し、当主を無理やり上杉定実に入れ替えるクーデターを起こした。
房能は山内上杉顕定の実の弟だった為に顕定がその内乱に介入した。
1509年7月、顕定は為景追討のために越後に出陣するが逆に為景によって討たれてしまう。為景は関東における与同勢力に蜂起を促し、これに呼応したのが宗瑞であった。
1509年8月、宗瑞は相模中郡に高麗寺要害と住吉要害を築城。更に扇谷上杉朝良の宿老上田蔵人入道を内応させ権現山城に蜂起させた。同月下旬には江戸城周辺まで侵攻した。
朝良は顕定の越後出陣に際して上野の反乱勢力の追討にあたっていたことで、自らの領国を留守にしていた。宗瑞はこの隙をついていたが、江戸城を攻略を断念し一度兵を引く。
1510年5月、宗瑞は山内の領国にも侵攻し、宿老大石顕重が籠る多西郡椚田要害を攻略し、城主大石氏は移井城に後退した。
しかし、6月20日に顕定が死ぬと、山内軍は関東に帰国した。顕定の養子山内上杉憲房は朝良に対して、
•忍城主成田顕泰
•岩付城主渋江孫太郎
•花園城主藤田虎寿丸
•由井城主大石源左衛門尉
•武州南一揆
などからなる大規模な援軍を派遣した。
宗瑞はこれらの軍勢を率いる朝良に反撃され7月11日から権現山城を攻められ19日に落とされた。
扇谷方の有力武将である三浦義同も扇谷方として侵攻を開始した。三浦氏は相模東側をの領主でもあり、宗瑞の標的でもあった。
三浦軍は相模中郡住吉要害を攻略すると、朝良軍と合流し長尾景春が籠る津久井山を攻略し、10月には西郡の小田原城まで攻めた。
12月9日、西郡の前線拠点である鴨沢要害を攻撃するが、城から撃って出た宗瑞と合戦が起こる。
こうした扇谷方の反撃に遭い、宗瑞は朝良と一旦和睦を結んだ。
1512年6月、山内上杉氏と古河公方で内訌が勃発し、扇谷と山内の間で再び抗争が起こる。宗瑞はこの隙をついて再び相模への侵攻を開始する。
岡崎台合戦
宗瑞の最初の目標は三浦義同の領有する岡崎城であった。8月、宗瑞は義同の嫡子三浦義意が籠る岡崎城を攻撃し始める。12日に在城衆との間で合戦が行われ伊勢軍が勝利し、岡崎城を攻略した。敗残兵は義同の籠る三浦郡住吉要害に後退した。宗瑞はこれを追い9月に鎌倉に進出した。
こうして宗瑞は中郡•東郡を攻略した。
藤沢合戦
1513年1月、宗瑞は義同と激しい合戦を起こし勝利。なおこの時藤沢の遊行寺が焼失している。そしてこの戦に敗北した義同は住吉要害から本拠の三浦郡三崎城に後退した。
7月7日、宗瑞は義同の弟三浦義教が籠る住吉要害を攻略した。義教は自害した。
その後扇谷方の援軍によって宗瑞は苦戦していたが、1513年に駆けつけた援軍を倒し太田資康を討ち取る。1516年には新たに当主となっていた扇谷上杉朝興による援軍を倒して江戸城まで後退させ、7月11日についに三崎新井城を攻略した。義同•義意父子は自害し、三浦氏は滅亡した。こうして宗瑞は相模を統一した。