概要
1476年、駿河守護であった今川義忠が死ぬと、今川家では当時3歳であった義忠の遺児龍王丸(後の今川氏親)と、義忠の従兄弟にあたる小鹿範満とで家督争いが起こった。龍王丸の叔父の伊勢新九郎盛時の仲裁で「範満は龍王丸が成人するまでの家督代行」という事になったものの、範満には扇谷上杉氏と堀越公方の支援があり、龍王丸は今川館(後の駿府城)を範満に譲り、母の北川殿とともに法永長者の小川城(焼津市)に身を寄せた。
1479年、北川殿は従兄弟の伊勢貞宗(幕府の政所執事)を通じて8代将軍足利義政の龍王丸を今川家の正式な当主と認める御教書を手に入れた。
1486年、龍王丸は元服できる年齢となったが、範満は今川館を退かなかった。
1487年、龍王丸陣営は盛時に下向を求め、盛時はそれに応じた。11月、盛時は石脇城(焼津市)に兵を集めて今川館を襲撃し、範満を討った。範満の死因は不明で、この戦自体あったのか疑問視されている。※
※当時、堀越公方は幕府との関係改善を図っており、扇谷上杉氏は内乱で支援できる状況ではなく、両者とも範満陣営への支援をやめていた。
1495年、盛時による駿河平定が一段落したのを期に龍王丸は今川館に入って元服し、今川氏親を名乗る。その後は盛時と共に勢力拡大に力を入れていった。