概要
生没年:文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)
肩書:御用商人
文化9年3月7日(1812年4月18日)、長門国赤間関にて荷受問屋の長男の家に生まれる。
実家は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。正一郎の生まれた下関は、西国の交通の要となっていたため、長州藩やその支藩の資金援助を受けて、繁栄した。
国学者・鈴木重胤に教えを乞い、その重胤の門下生を通じて西郷隆盛と知り合いの仲になる。この縁があり、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。
元々正一郎は顔が広く、勤皇僧の月照や福岡藩士・平野国臣とは知り合いで、彼らに影響を受けて尊王攘夷に共鳴し、長州藩士でゴリゴリの尊攘派であった高杉晋作らに資金を援助している。
この頃には土佐藩を脱藩し、参政・吉田東洋の暗殺の容疑をかけられて逃亡生活を余儀なくされていた坂本龍馬も白石邸を訪ねている。
文久3(1863)年には高杉のすすめで次弟・白石廉作(平野国臣の起こした生野の変に参加して戦死)とともに奇兵隊に加入し、会計係を勤めた。晋作は正一郎を萩本藩直属にすべく働きかけ、緊急時の人材登用という藩の方針もあり、7月5日、正一郎は武士身分に取り立てられ、支藩の商人から、本藩の家臣へと一躍出世を遂げた。
しかし、尊王攘夷派の志士の援助を行ってきたことで、次第に私財が底をついた。
晋作は藩に正一郎の援助を掛け合ったが、それが叶うことはなく、晋作は慶応3年(1867年)に結核でこの世を去った。
明治維新後は東京からの任官の誘いを断り、隠居生活を送った。当時の新政府の中には、誰も志士時代の恩を返そうとするものはいなかったが、正一郎は見返りを求めなかった。歌や学問をし、赤間神宮の2代宮司となった。明治13年(1880年)、69歳で死去。