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落合直亮

おちあいなおあき

落合直亮は、日本の幕末における勤皇の志士であり、赤報隊の隊士である。

概要編集

日本江戸時代における幕末で活躍した勤皇の志士であり、草莽隊の一つである赤報隊の隊士だったことでも知られ、その当時は変名として「水原二郎」を名乗っていた。

しかし、赤報隊が新政府によって偽官軍の烙印を押され、一番隊隊長の相楽総三をはじめ幹部8人が処刑されたことに悲憤した彼は、同志の権田直助や斎藤謙助らと共に、岩倉具視の暗殺を計画した。

だがそれに気づいた岩倉は、自分から落合と斎藤の二人を呼び出し、人払いをした上で丸腰の状態で自ら直接に説得を行い、その末に暗殺を断念したという。


その後、落合は岩倉の伝手で新政府の官吏となり、伊那県(現:長野県南部、愛知県東部)の判事に赴任し、明治3年(1870年)には大参事(現在の副知事、幕藩体制における家老に相当)に昇進した。

それに伴って赤報隊の名誉を回復するべく、兵部省(後の陸軍省と海軍省)に建碑の嘆願書を提出し、相楽たちの処刑場跡地に『魁塚(別名:相楽塚)』が建てられた。

更に彼だけでなく、相楽の孫である木村亀太郎をはじめとした赤報隊関係者たちの奔走により、昭和3年(1928年)において相楽総三に正五位、渋谷総司に従五位の位階が追贈され、遂に名誉回復が果たされることとなる。


晩年は神職となり、志波彦神社や浅間神社の宮司伊勢神宮禰宜を務めており、明治天皇が東北行幸したことあたって拝謁もしている。

国学者や歌人としても知られ、いくつかの論文を執筆している。


関連タグ編集

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明治維新 赤報隊

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