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概要編集

日向国主伊東義祐の家臣。

伊東家の豊後亡命後、伊東家復興の為奔走し薩摩の島津家を苦しめた。


天正5年薩摩島津家が日向へと侵攻し日向国主伊東義祐は豊後の大友宗麟のもとに亡命した。

伊東家家臣が続々と島津家にねがえるなか佑政は主君への忠誠をつらぬき島津家への抵抗を続けた。大友家が日向への侵攻を開始すると佑政は島津勢力圏の日向領内へと侵入し500人で石ノ城にこもり反島津の兵をあげた。


島津義久は、島津忠長、伊集院忠棟を大将として、石ノ城を攻めさせたが佑政の見事な防戦により500人以上の死傷者をだして撃退された。島津家は再び島津征久を大将として、伊集院忠棟、平田美濃守光宗、上井覚兼を副将とした1万の軍勢で石ノ城に攻め掛かった。2週間ほどの激戦の末、佑政は島津軍と講和を結んで豊後に退却し島津家は佑政に弓矢をおくって武勇をたたえた。大友軍が日向国高城をかこむと佑政は再び島津領へと侵入し三納村で兵をあげたがやぶれ大友家の高城包囲軍に合流した。耳川の戦いで大友軍が大敗すると佑政は殿をつとめて島津の追撃軍を一手でくいとめ島津家の大将曲田伯耆守、海江田主殿助を討ち取った後力尽き自害した。


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