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概要

かつてより隠岐の島は「隠岐国」という一つの自治体だった。

後醍醐天皇後鳥羽上皇が流罪にされて隠岐に流されたのが有名だろう。

そんな隠岐は1638年、松江藩松平家の支配下となる。

ただ、本土から距離があることなどからくる食糧不足に関して藩は何も手を打たなかったために島民は不満が募っていた。時はくだった1853年の黒船来航の影響で隠岐の防御を固めておくように幕府から言われた松江藩は、隠岐の農民を兵士にしようともくろむが、その過程での行動で問題が起きたために隠岐島民の不満は限界に達した。(農兵はその後に廃止されている)

尊王攘夷思想と騒動発生

隠岐の住民はもとより尊王攘夷の思想が強く、十津川で尊王攘夷思想の強い人物による学校が設立されると、開校した人物の弟子が隠岐にも学校を開くよう願いを郡代に渡すも許可は下りなかった。

その後は将軍に直訴しようと京都へ行こうとしたが長州藩から取り調べを受け、王政復古が成功したというのもあって退却した。

その後、山陰道鎮撫使総監西園寺公望が隠岐の庄屋にあてた手紙を郡代がこっそり見たことで事が露見。郡代が手紙を見たことを知った島後の庄屋は郡代追放で満場一致、島前の庄屋にも協力を要請し、それが認められると、島民3000人が陣屋を強襲し、郡代は追放されて島民の自治が開始された。

騒動発生後の処理

隠岐を一つの自治体にするよう明治政府に願い出るもいい返答は来ず、松江藩がやってきて陣屋が奪還されることとなった。ただ、島民側に同情的だった鳥取藩、薩摩藩、長州藩が仲介に入り松江藩は撤退。

明治元年には鳥取藩政下に置かれて自治は終わった。

明治4年、騒動に絡んだ隠岐・松江藩両方の人物が罰せられて騒動は終わりを告げた。

隠岐騒動とコトリバコ

都市伝説の一つで呪いの箱とされる「コトリバコ」は隠岐騒動中に隠岐から本土に伝わったという噂がある。ただ、騒動の時系列などの問題から憶測の域を出ない。

しかし、隠岐の年配の方にこの話をすると「ああ、そういうことね」と、知っているかのようなそぶりを見せるらしい。

また、実際は出雲本土にコトリバコが元からあって、隠岐騒動と絡めた説もある。

山奥の村・被差別部落・どこかの神社にあるという噂も出ている。

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