概要
伊予(現在の愛媛県)今治藩主。後に伊勢(現在の三重県)津藩の初代藩主となる。出身は近江国藤堂村で、没落した元小領主の家に生まれた。身長は六尺二寸(約188cm)という、当時ではかなりの大男だった。
初め浅井長政の元で仕え、姉川の戦いなどで武功を挙げる。浅井家滅亡後は織田家に移り、織田家に降った浅井家旧臣阿閉貞征、次いで同じく浅井家旧臣の磯野員昌に仕えた。その後は津田信澄に仕えるも長続きせず、豊臣秀長に仕え、中国攻めに従軍する。本能寺の変発生後も彼に付き従い、賤ヶ岳の戦い(対柴田勝家)、紀州征伐(対雑賀衆)、九州征伐(対島津家)などに参加。賤ヶ岳の戦いの活躍で大名に昇進し、以後も順調に石高を上げていく。
秀長の死後は、彼の甥で養子だった豊臣秀保に仕え、秀保の代理として文禄の役に出征している。秀保が早世した後は一時出家。しかし、その才を惜しんだ豊臣秀吉に請われて還俗し、大名として復帰。慶長の役にも水軍を率いて参加している(この頃から加藤嘉明と仲が悪いことで有名になる)。
秀吉の死後は徳川家康に急接近。関ヶ原の戦いでは東軍側に付き、会津征伐(対上杉家)に参加。石田三成の挙兵後は、織田秀信が守る岐阜城を攻撃。関ヶ原本戦では大谷吉継と死闘を繰り広げた。その一方で毛利輝元の四国出兵の撃退や、西軍諸将への調略でも手腕を発揮している。戦後はこれらの功で今治20万石の大名となった。
その後は二度の加増転封により、津藩主となり、大坂の陣に徳川方として参加。長宗我部盛親と激闘を繰り広げ、その功で32万石に加増されている。以後は藩政の確立に努め、幕命で会津藩、高松藩、熊本藩の後見も行った。
寛永7年(1630)10月5日に死去。享年75。全身に数多くの戦傷があり、死後に遺骸を検めた時には右手の薬指と小指、左手の中指、左足の親指が欠損または一部欠損していた。
主替え
浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄(織田信長の甥)→豊臣秀長~秀保→豊臣秀吉→徳川家康~秀忠と、生涯で幾度も主君を変えた武将として有名。
ただし、主君が夭逝・滅亡したり、折り合いが悪かったりとめぐり合わせも悪かった。実際、豊臣秀長に仕えた際には、養子の秀保が亡くなるまで十年以上に渡り、大和大納言家に仕えている。
「家」でなく「人」に仕えるタイプだったのかもしれない(本人も世間の風聞をわきまえていたのか、生前「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と自虐的に嘯いている)。
もっとも当時においては、出奔なんてものはされるほうが悪いというのは常識であり、一人の主君に忠を尽くすというのは後世、江戸幕府が確固たる体制を築いた後に儒教の影響を受けて出来上がった考え方である。
感状という武将の再就職を手助けするようなシステムもあった以上、高虎の行いを非難するのは当時を知らない人間の的外れな意見でしかない。
それだけに自分の家臣が暇乞いを願い出た時もそれを快く受け入れ、次の士官先でうまくいかずに帰参を申し出られれば元の所領を与えて帰参を許した。
なお、この藤堂氏の津藩は、明治初期の廃藩置県まで存続した。しかし、旧幕府軍と官軍が衝突した戊辰戦争序盤の鳥羽・伏見の戦いで、主戦場(淀川左岸の京街道)の対岸(西国街道)を(開戦前から)警備していたところ、幕府側の不利を悟ると官軍に味方して、対岸で敗走している旧幕府軍に砲撃を加えたため、旧幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世訓に仮託して皮肉られたという(藩主が老中なのに旧幕府軍を攻撃した淀藩の方がひどいはずだが)。だが一方、後に下された日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否しているので、(勝海舟や徳川慶勝などと同じく)幕府はどうでもよくなっても、徳川宗家には義理は通しているとも言える。
最後に忠を尽くした徳川家康および江戸幕府からの信任は非常に厚く、初代将軍・家康をして「国に大事あらば藤堂高虎を一番手とせよ」とまで言わしめた。
江戸幕府成立後は外様大名にかかわらず譜代大名扱いするなどの厚遇を受けた(ただし、真田家などのような公式のものではない)。また家康の臨終の際には外様大名でただ一人枕元に侍ることを許された。
築城の名手としても知られ、黒田孝高・加藤清正と並び、三大築城名人の一人に数えられる。特に加藤清正とは特徴の違いが鮮明なため、よく対比される。
その築城スタイルは前出の二人が複雑な縄張りで『侵入した敵の進軍を阻み、その間に撃退する』ものであるのに対し、藤堂高虎の縄張りは『深く広い堀と高い石垣で敵を侵入させない』ものである。
城の縄張り自体は政庁としての機能が重要になるのに従い(政庁としての)使いやすさを重視していったので、後世の物ほどシンプルになっていく。政庁としての使いやすさと城塞としての守りやすさを両立させるのは困難であるが、そもそも大規模な堀と石垣で敵の侵入を許さなければよい、という考えである。
また、天守台の構造を単純化して構造的に強化したうえで天守を上げやすく(天守を建てることを『あげる』という)した。
創作物上の扱い
以下の作品以外には、VISCOの業務用STG『婆裟羅』、コーエーのSLG『采配のゆくえ』などに登場。一般的には優秀だが義理には疎い人物として描かれる。
戦国大戦
『へっ、これで仕官も思うがままってか!』
「1570魔王上洛す」から浅井家武将として参戦。
ゲームの時間軸の都合上、浅井家時代~出奔までの時代にあたる青年期の姿で登場。群雄伝ではまだ無名の頃であるため出番は多くない。
言動もかなり粗暴であり、姉川の戦いのあとに一般兵に誹謗を受けたのでそいつぶっ殺してもう浅井家も潮時だと感じて出奔するなど、世間一般のステレオタイプなイメージを踏襲している模様。セガだから仕方ないか。
ただ、初陣の姉川の戦いから目をかけてもらい、織田家の一員として小谷城で対峙した際、「一時でも浅井を支えてくれた者を斬るのは忍びない」と見逃してくれた浅井長政個人に対しては恩義を感じていた模様。
築城の名手として将来有名になる逸話から、特技・攻城を持つ。
ゲーム中ではこの特技は城攻めの際に機能するものなのだが、他にも築城・城攻め関係の逸話を持つ武将も所持しているためその辺は曖昧なのかもしれない。
所持計略『流転の構え』は自身にかかった計略効果を消し、武力を上げる計略。計略効果を消した場合大幅に武力が上がるため、敵からの妨害計略に対抗、味方からの強化計略の終わり際に使ってもう一頑張りなど活用の幅は広い。
『犬のように忠義を尽くして、何になる。もう、そんな時代は終わったんだよ』
戦国無双シリーズ(+α)
『馬鹿野郎! 死んでどうなる!? 死ねば、ほんとのおしまいだ! 生きろよ! 生きなきゃいけないんだ!死んじまった者のために! 』
CV:松風雅也 武器:細剣 (右の“戦国無双chronicle 2nd”)
真の初登場はGREE制作のケータイ(or スマフォ)の100万人の戦国無双。(左)
ねねの紹介札の特殊レアA。工匠館が設置できる。
彼女を「ねね様」と呼ぶ。また、ねね獲得時の会話は主君を転々と変えた話になっている。
外伝作品『戦国無双chronicle 2nd』にプレイヤーキャラとして、とうとう参戦。(右)
刀身の長いレイピアのような武器を使い、チャージ攻撃では周囲に氷柱を発生させる。
冷たい現実主義者の様に見えるが、心の奥底には使えるべき主君に忠誠を尽くしたいという熱い思いを抱いている。
自分が一兵卒だった頃に身分の関係なく戦の褒賞として太刀と小判を授けてくれた長政の事を深く敬愛しており、彼の死の一因を作った秀吉に対してはいい感情を持っておらず、合戦指南の時でも「長政様の仇…」と隙あらば秀吉を亡き者としようとしていた。
最終的に徳川家に仕えたためか、衣装の色は青を基調としている。
公式サイト等の情報から、幸村の新たなライバルキャラとしてデザインされたことが見受けられる。
そのデザインは、采配の忠興に見えなくもない…?
生きて主君に尽くしてこそ武士との考え方を持っており、大坂夏の陣では死してでも主君に尽くそうとする幸村を説得しようとした(上記の台詞はその時のものである)。
個別イベントなどで選択肢で、恋愛的な台詞を選ぶと「何を言ってる」と冷たくあしらう等、フラグクラッシャーに定評有り。(女性ユーザーが女主人公でプレイしていると余計そう感じる)
戦国無双4にてナンバリングタイトル初参戦する。
同じく4で初参戦した大谷吉継との友情を描かれ、関ヶ原の戦い(西軍)及び(東軍)ともイベントムービーは必見。
ユニークブショーとしてのイラストもあるが、ベストリンクであるランプラー・シャンデラがカンベエと被る。
采配のゆくえ
飄々とした性格をした謀将で知略に富み、すぐれた観察眼の持ち主。
忍者役の位置を使った謀略線を得意としている。
「熱くなったら負け」を信条としており、石田三成をバカにしている。
大谷吉継を自分に近い存在だと思っておりライバル意識を抱いている。