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源頼政の編集履歴

2014-07-27 11:59:40 バージョン

源頼政

みなもとのよりまさ

平安時代末期の武将。以仁王とともに平氏打倒の口火を切った。また妖怪鵺退治の伝説でも知られる。

概要

家系

源仲政の長男として長治元年(1104年)誕生。

いわゆる「源氏」の武士として知られる清和源氏のうちでも、源義朝源頼朝らの家系(河内源氏)とは家系が異なる。頼政は、酒呑童子土蜘蛛退治の伝説で知られ、金太郎の昔話にも登場する源頼光の家系(摂津源氏)で、頼光の玄孫に当たる。

保元・平治の乱と栄進

保元の乱では後白河天皇側について勝利。続く平治の乱でも平清盛に味方したことで、その後平氏が政権を握った時代にも中央政界に留まることができた。

治承2年(1178年)、75歳にして従三位に昇進した。三位は高級貴族の証であり、四位以下とは栄誉や待遇がまるで異なるが、当時の清和源氏は本来は三位にはなれない家柄だった。長年源氏の長老として朝廷に仕えた功績と、当時政権を握っていた平清盛にも信頼されていたことで、老年の頼政への栄誉として昇進が実現したのである。このため頼政のことを源三位(げんざんみ)とも通称する。

以仁王の挙兵と敗死

頼政はその後、家督を嫡男の仲綱に譲って出家し隠居していた。しかし治承4年(1180年)、安徳天皇の即位をきっかけに、後白河天皇の第三皇子である以仁王が平氏打倒の兵を上げると、頼政はこれに応えてその中心武力となった。延暦寺園城寺興福寺など、平氏に反感を持つ寺社勢力の僧兵らと手を結び平氏を追い詰める計画だったが、平氏の懐柔工作が素早く延暦寺が中立化してしまう。園城寺から興福寺へと逃れる途中で平氏軍に追いつかれ、平等院にこもって抗戦するが、力及ばず自害した。享年77。

辞世の句埋木の 花咲く事も なかりしに 身のなる果は あはれなりける

鵺退治伝説

平家物語』には、頼政による妖怪退治の伝承が載る。


近衛天皇の時代、夜な夜な宮中の屋根に正体不明の黒雲が現れ、帝がそれにうなされる日々が続いていた。このとき帝の警護を任されたのが頼政だった。頼政は信頼する部下の猪早太(いのはやた)一人だけを連れ、夜間の番をしていると、丑の刻(午前2時ころ)、噂の通り宮殿の屋根に黒雲が現れた。頼政が矢を放つと見事に命中し、何かが地に落ちたところを猪早太が駆け寄り止めを刺した。灯りをともして確認すると、頭は猿・体は狸・尾は蛇・手足は虎という化け物であった。


近衛天皇は大変に喜び、「獅子王」の銘を持つ剣を頼政に褒美として与えた。このとき、剣を授ける役を務めた左大臣の藤原頼長が頼政に「ほととぎす 名をも雲居に あぐるかな」(ほととぎすの鳴くこの6月、雲を射落として雲居[宮中のこと]に名声を挙げたことだな)とかまをかけた。すると頼政は「弓張り月の いるにまかせて」(空の弓張り月[半月]の輝きにまかせて、弓を射たにすぎません)と即座に下の句を返して剣を受け取った。単なる武芸者ではなく和歌にも優れた人だ、と、頼政の名声はますます高まった。

逸話

  • 平家物語』では、頼政の従三位昇進について、時の権力者である平清盛が昇進させるのをすっかり忘れていた、という設定になっている。しびれを切らした頼政が「のぼるべき たよりなき身は 木の下に 椎を拾ひて 世をわたるかな」(シイの実と「四位」をかけている)と詠み、清盛がようやく気付いて昇進させたという。
  • 和歌を交えたエピソードが多いことからも分かるように、武士としてだけでなく歌人としても優れていた。娘には小倉百人一首にも撰ばれた二条院讃岐がいる。

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