ご生涯
嘉永5年(西暦1852年)9月22日(陽暦11月3日)、孝明天皇の第2皇子として、外租権大納言中山忠能邸内の御産所において御降誕。母は中山慶子。9月29日に祐宮と命名。
万延元年(西暦1860年)7月10日、祐宮を立てて儲君とする。同年9月28日に立親王宣下、御名を睦仁と賜る。
同月29日に大葬を発し、剣璽を親王の居室に奉遷。
1月9日践祚、清涼殿代小御所にその儀を行い、関白二条斉敬を摂政とする。
6月28日、故左大臣一条忠香第三女寿栄君を女御とお定めになる。
明治元年1月10日、外国条約に大君の名称をやめ、以後は天皇と称することを各国公使に告ぐ。
3月14日、紫宸殿に出御、天神地祇を祀り、五事を誓い、更に宸翰を賜う。
8月26日、聖誕日を天長節とし、酺を百官に賜い行刑停止を布告。
翌27日、紫宸殿において即位礼を行われる。9月8日、慶応4年を改めて明治元年とし、一世一元の制をお定めになる。
10月13日、車駕東京に御着、西丸を皇居となし改めて東京城と称する。
同月28日、大宮氷川神社御参拝、祭政一致の詔をお発しになる。
明治3年12月10日、伏見・桂・有栖川・閑院四親王家のほか二世以下姓を賜い、華族に列する。
明治4年6月14日、詔して列藩を廃して県とし、知事を召して親諭する。
明治5年11月9日、詔して太陰暦を廃し太陽暦を採用。同月15日、神武天皇即位の年を紀元となし即位日を祝日とする。
明治6年1月4日に五節を廃し、神武天皇即位日、天長節等を祝日とする。同月29日に神武天皇即位祭典を行い、酒宴を百官に賜う。3月7日、神武天皇即位日を紀元節と称する。
明治12年8月31日、第3皇子御降誕。
同年9月6日、皇子御命名、明宮嘉仁親王と称する。
明治14年10月12日、明治23年を期して国会を開設される勅諭をお発しになる。
明治15年1月4日、陸海軍人に勅諭を賜う。
明治17年7月7日、華族令制定、詔して爵五等を設けられる。
明治18年12月22日、太政大臣・左右大臣・参議各省卿の職制を廃し、内閣総理大臣および各省大臣を置き内閣を組織される。また宮内大臣を置き、宮廷のことにあたらせる。伊藤博文伯爵を内閣総理大臣に任命される。宮中に内大臣および宮中顧問官を置き、三条実美公爵を内大臣に任じられる。
明治20年8月31日、嘉仁親王を皇太子にお定めになる。
明治22年2月11日、憲法発布式を正殿にて行い勅語を賜う。
明治23年10月9日、第1回帝国議会召集の勅令をお発しになる。同月30日、教育勅語発布。
明治28年8月1日、清国に対し宣戦の大詔をお発しになる。日清戦争が勃発。同月13日、大本営を広島にお進めになり、この日御発輦。
明治33年2月11日、皇太子妃九条節子姫と御婚約の奉告祭を行われる。5月9日、皇太子妃九条節子姫を勲一等に叙し宝冠章を賜う。同月10日、東宮御成婚の礼を挙行。
明治34年4月29日、第一皇孫御降誕、迪宮裕仁親王と名づけられる。
明治37年2月10日、ロシアに宣戦の大詔を渙発。日露戦争が勃発。
明治44年1月18日、無政府党員・幸徳伝次郎ら24名が大審院にて死刑の宣告を受けるが、翌日特典をもって12名を無期懲役に減刑される。
明治45年7月30日、午前0時43分、患われていた糖尿病の悪化による尿毒症のため、皇居明治宮殿内にて崩御。皇太子嘉仁親王が践祚して大正と改元。
大正元年8月27日、大行天皇を尊び明治天皇の御追号を奉る。
9月13日、帝国陸軍青山演習場にて大喪の礼が執り行われる。
9月14日に伏見桃山陵に奉葬、翌15日、明治天皇御陵名を伏見桃山陵と定める。
明治天皇個人は日本の伝統文化への愛着が強く、明治政府が推進した欧化政策には批判的な一面もあったが、政府の意向に従って率先して洋装洋食を行い、欧州文化を受け入れるお手本の役割を果たした。
戦前・戦中は「明治大帝」「明治聖帝」とも称された。「世界における日本」を建設された明治天皇御一代の業績を称賛したものであろう。
お人柄
贅沢嫌い
生涯で約10万首の御製(和歌)をお詠みになり、しかし綺麗な和紙にしたためられたものではなく、裏紙に鉛筆で書かれたものが数多く残っており、しかもちびた鉛筆を好んで使っていたという。
家族に対しても贅沢や甘えを許さず、明治天皇の娘である自身の曾祖母について竹田恒泰氏は、大変厳しく育てられたという話を聞かされていたという。
明治時代には全国に立派な御用邸が建てられ、天皇と皇族にはいつでも好きなだけお使いくださるよう新政府が配慮したが、明治天皇は生涯一度も利用すること無く、それどころか娘が御用邸を使うことさえ一度も許さず、
「娘を愛している、ゆえに遠ざける」
という理由からだったという。
戦争嫌い
日露戦争の開戦前、情勢緊迫でついにロシアとの国交断絶もやむなしとなり、御前会議が繰り返されるなか、食事も喉を通らなくなった明治天皇は食を三分の一に減らし、内閣と総師部が対ロシア開戦を決定したときも、明治天皇は
「戦争を回避する方法は本当にないのか」
と御下問になり、重臣たちは一回下がってもう一度ゼロから戦争回避の方法がないかを再検証した。
それでも結論は変わらず、やはり開戦しかないと再度、明治天皇の裁可を仰ぎ、そこでロシアとの国交断絶(=開戦)の裁可を決められたが、その日はついに米一粒も喉に通らなかったという。
また、戦時中は他国の大元帥とは違い、明治天皇は戦時中どんなに華々しい戦果が伝えられても表情一つ変えることがなかったという。
戦場の悲惨な現実を知っており、とても喜ぶ気にはなれなかったとされ、勝敗よりも戦争状態にあること自体がすでに好ましからざる事態だったのである。
戦地の将兵と心を共にする
ロシアとの国交断絶が裁可されてからというもの、明治天皇は
「わが身は戦地の将兵たちとともにある」
として決して暖房を使うこと無く、日清戦争が始まり大本宮の広島への移動に伴って、斉明天皇以来1200年ぶりに大元帥として都を離れ、地方に出征した時も、天皇の居所としてそれなりに立派なものを計画されていたが、明治天皇は
「立派なものは一切不要である」
として、寝室と執務室を分けることすら許さず、一つの部屋で寝起きし、朝になると布団を片付けて机で執務を執っていた。
見かねた将校が
「部屋が殺風景だから壁に絵を一枚かけさせていただけないでしょうか」
と伺うと、
「戦地の将兵たちの官舎に絵がかかっているか」
と将兵は問われ、
「いえ、かかっておりません」
と返答すると、
「ばか者! 絵を見ながら安逸の時を過ごしている場合ではない」
と将兵を一喝したという。
また、別の将校が
「せめてお休みになられるソファを一台入れさせてもらえないでしょうか」
と伺うと、同じように
「戦地の将兵たちがソファを使っているのか」
と問い、「それはないと思います」と答えると、「ばか者!」とやはり一喝され、つねに戦場の兵士たちとともにあることを徹底していた。
日露戦争のとき、伊藤博文が明治天皇の緊急のことがあればいつでも上奏するようにという御下命に従い、昼食時に緊急の案件を奏上したとき、伊藤氏が横目に陛下が昼食に摂っているものを見ると、なんと汁物も付け合わせも何も無く、米を梅干し一粒で食していたという。
しかもそれは自分が質素な食事をしているのを見せるためではなく(将兵たちは陛下の食事を目にする機会などない)、自分が戦場に行けない悔しさを噛みしめながら、将兵たちのことだけを考えて日々を過ごしていたからである。