戦争目的
大日本帝国・インド国民軍 | インパールの攻略・占領による、インドのイギリスの植民地支配からの解放・独立及び、 後方撹乱と援蒋ルートの遮断。 |
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イギリス・イギリス領インド帝国 | 日本軍・インド国民軍のインパール侵攻の阻止と、植民地の防衛・確保。 |
概要
1944年(昭和19年)3月から7月まで行われた、インドのインパール攻略作戦(インパール作戦)であり、この戦いは日印連合軍による“対英独立戦争”とインドでは特に明確に位置づけられており、イギリス支配下のインドの独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略を撹乱する目的も含まれていたことから、大日本帝国陸軍とインド国民軍との共同作戦で行われた。『インド独立戦争』『インド解放戦争』とも呼ばれている。
経緯
当時のインドは200余年もの間イギリスに植民地支配され、その間、実に約1700万人ものインド人が虐殺されるという過酷な支配下であり、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島・シンガポール・ビルマのイギリス軍を破竹の勢いで撃破し、歴史的な『マレー海戦』の完全勝利に、インド国民は歓喜していた。
インドの独立をずっと訴え続けていたスバス・チャンドラ・ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースやモハンシン大尉の強い要請から日本に受け入れられ、東條英機首相から無条件援助の確証を得て、1943年10月21日『自由インド仮政府』を樹立、日本政府が同年23日に正式に承認した。 同年24日に正式にアメリカ・イギリスへ宣戦布告を宣言し、日本と共に戦うこととなった。
この作戦は、日本がインドに侵攻してインド独立を支援する事によって、イギリスの戦力を割き、さらにエジプトに侵攻しているドイツと連絡する事によって、連合国を分断する事が出来るというものである。
同様な事は『太平洋戦争は無謀な戦争だったのか』と言う翻訳書で訳者が
「私は、インド洋作戦こそが、第二段作戦の中心であり、それによって英本国への豪・ 印からの原料・食料などの補給遮断、スエズ英軍への米からの武器補給遮断、カルカッタ−アッサムからの 重慶への米補給路の遮断などの莫大な効果をあげることができる、と結論付けていた。」
と語っている。
このインドへの侵攻の基本構想は開戦直前の『対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案』に明記されていると言う。すなわち海軍の『ハワイ作戦』、『ミッドウェー海戦』などは、この基本構想に全く反するものであり、この作戦こそが基本構想にかなったものであった。
日本側の司令官は牟田口廉也中将で、連合国の中華民国への支援ルート(援蒋ルート)の遮断を戦略目的としてビルマから山脈を越えてインド北東部の都市インパールに攻め入るというものだった。しかし計画の立案時点から補給などに問題があるとして反対意見が出ていたが、反対する者が次々更迭されて実行されることになった。
インド国民軍も、1944年にはビルマに移動し、「自由インド」「インド解放」をスローガンに、日本軍とともにインパール作戦に参加し、当初はアッサム州(現・ナガランド州)のコヒマを占領し、一旦はインパールに迫るなど進軍を続けた。
しかし、ジャングルや山を越えていく進軍は困難を極め、牟田口中将が考案した『ジンギスカン作戦』(牛に荷物を運ばせあとで食糧にする)も牛が途中で逃げたり川に落ちるなどして失敗してしまう。
補給が伸び切った状態で4月に入ると現地は雨期になり前線が飢えと雨と伝染病で過酷な状況となってしまい、前線の指揮官の1人第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将はあまりの惨状をみかね撤退を進言するも聞き入れられず、ついに5月末独断で撤退を決意。
「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」
と司令部に返電し、自身への処罰を覚悟で退却させてしまう。
7月3日、作戦中止が正式に決定し失敗に終わったが、この戦いが起爆剤となって、後にイギリスによるインド国民軍への軍事裁判で、インド民衆が決起し、インド全土で独立運動が起こり、インドは独立を承認される。
評価
牟田口中将は、独断で退却した佐藤中将をのちに更迭し、同様に撤退を進言した第33師団長柳田元三陸軍中将・第15師団長山内正文陸軍中将を更迭。山内は現地でマラリアに罹患しており、牟田口中将らへの恨みを残しながら日本に帰れず死亡したと、戦後は伝えられている。
だが、指揮した参謀の牟田口中将の評価には意外なものがあり、戦史の常識では無謀な作戦から逃亡した佐藤中将の行動を、多くの部下を飢餓から救った人道的指揮官として、牟田口中将は無謀な作戦を強引に発動した軍人として非難しているが、佐藤師団の撤退によって師団は救われたものの、置き去りにされた他の師団は多数の被害を出している。あまつさえ、勝利さえ失ったのである。
インパール作戦はむしろ大本営の望んだものであり、牟田口中将は上官に逆らう事を最も忌み嫌った軍人であったと言う事が、記録で証明されている。第十五軍の河邊方面軍司令官が、 当初は作戦に積極的であったので牟田口中将を督励し、不利になって変心してもそれを明言せず、 牟田口中将の指揮に一任したのである
英国公刊戦史では、むしろ途中撤退した佐藤幸徳中将の行動が非難されており、
「あとひと押しで日本の勝利はあったのであって、英国は窮地に陥っていた」
と語られており、当時のイギリス軍側のインド人兵士は
「どうして日本軍はあと10日、インパール作戦を続行しなかったのか!私たちインド兵団は、INA(インド国民軍)に寝返る準備をしていたのに・・・・・・」
と悔しがっていたという。
また、英国ロンドン大学教授のエリック・ホブズボーム博士は、インドの独立後に、
「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」
と語っている。
最終的にインド独立を成し遂げたのはガンジー率いる国民議会派ということに名目上なっているが、あくまでもこのインパール戦争が、インドの独立をもたらすきっかけとなったことに留意しなければならない。
逸話
- この戦いは本来インドの独立のための戦いであり、インド国民軍を前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくするのが自然であるが、日本軍はむしろ戦いの先頭に立ち、インド兵を後ろに置いてインドを目指し、下級将校も自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存していた。
- この戦いは、フランスで起こったワーテルローの戦いに匹敵する歴史的規模の凄絶な陸戦であったが、それにもかかわらず、不思議なことにイギリスはこの戦いの勝利を誇ることをせず、戦いの後にインドのデリーで企画されていた戦勝記念式典を差し止めている。
- インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、それまでの帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっており、やる気がまるで感じられない状態であった。マハトマ・ガンディーらの非暴力の行進に対しても、ほとんど発砲もしないで通しており、以前のようにデモ集団の真ん中に機関銃を撃ち込むようなことはしなかった。さらにヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で暴動がおこり、パキスタンが分離独立しても態度を変えなかった。また同じ風景はパレスチナでも見られた
- 戦後の東京裁判(極東国際軍事裁判)で、イギリスはインドがラダ・ビノード・パール判事を送り、パール判事が日本擁護の判決付帯書を書くことについても口を出していない。
- 現地インパールの人々は、日本軍が死屍累々の骸をさらした丘を『レッド・ヒル』とわ呼び、この地に日本兵の慰霊碑を建立した。慰霊碑を建立したモヘンドロ・シンハ村長は「われわれは日本兵がインドの独立のために命をかけて戦ってくれたことをよく知っていました。だから日本兵に衣服や食糧を喜んで供給したのです。ところが、イギリス軍に知られ妨害されるようになりました。日本軍は飢餓に追いこまれながらも、勇敢に戦い、そして戦死していきました。この勇ましい行動は、すべてインド解放のためであったのです!私たちはいつまでもこの勇戦を後世まで伝えたいと思い、慰霊碑を建立したのです。この塔は日本軍人へのお礼と、独立インドのシンボルとしたいのです。そのため村民で毎年慰霊祭を行っています」と述べている。
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