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小栗忠順の編集履歴2016/04/05 09:54:59 版
編集内容:ポサドニック号事件追記

概要

文政10年6月23日(1827年7月16日)~慶応4年閏4月6日(1868年5月27日

幼名は剛太郎。父は禄高2,500石の旗本・小栗忠高。

父を誤診により失った28歳の時に家督を継ぎ、30歳で御遣番となった。以後、遣米使節監察外国奉行勘定奉行南町奉行軍艦奉行を歴任。ちなみに斬首に処されるまでの10年間で何度も要職を務めては辞めてを繰り返している

大政奉還後に罷免されて隠遁した後、薩長軍に追討令を出される。その後捕えられて斬首に処された。享年40。

遣米使節

安政7年(1860年)、小栗は遣米使節の監察としてアメリカサンフランシスコへと旅立った。

  • この際、アメリカ人から使節団の代表と勘違いされたという(正使新見正興)。これは新見をはじめ他の面々が外国人慣れしていなかった中で、小栗は詰警備役として外国人との交渉に慣れていたがため。
  • また、「日本はスパイを使節として同行させてるのか」と嫌疑をかけられたことがある。この際も小栗は「目付というのはケンソル(監察官)」と主張して切り抜けたという。
  • フィラデルフィアでは通貨の交換比率見直しの交渉を行った。小栗は金貨の分析実験を行い、日本側の主張の正しさを証明して見せたものの、改正自体には至らなかった。だが、アメリカの新聞はこの小栗の交渉を絶賛した。
  • 小栗は海軍工廠の見学に行った際、その技術に驚嘆してネジを持ち帰っていった。

その後小栗は別の船に乗り換えたうえで大西洋を渡り、品川へ戻っていった。帰国後、小栗はこの功により禄高を200石加増され、外国奉行に就任する。

ポサドニック号事件

文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国軍艦対馬占領するポサドニック号事件が発生。5月7日(6月14日)、外国奉行の小栗は咸臨丸で現場の対馬に派遣される。10日、14日、18日の3回に渡り小栗は艦長と会談を行った。

第2回会談で小栗は「ロシア兵の無断上陸は条約違反」であるとして抗議を行う。4日後の第3回会談で藩主との謁見を求める艦長に対し、小栗は「(謁見を認めたらロシア兵の対馬居留を認めることになるので許可できない、と老中安藤信正から言われたので)謁見はできないと回答。艦長は「話が違う」として猛抗議したが、対する小栗は「私を射殺して構わない」と言って押し切ったという。20日に江戸へと戻った小栗は老中に

  • 対馬を直轄領とする。
  • 事件の折衝は正式の外交形式で行う。
  • 国際世論に訴え、場合によってはイギリス海軍の協力を得る。

などを提言したが、受け入れられずに小栗は7月に外国奉行を辞めてしまった。だが8月、イギリスの圧力でポサドニック号は対馬から撤退することになる。

創作物

小説

星新一『はんぱもの維新』・・・主人公

小栗忠順を演じた俳優

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