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ティベリウスの編集履歴

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ティベリウス

てぃべりうす

ローマ最高指導者(第2代)

TIBERIVS JVLIVS CAESAR AVCVSTVS

ティベリウス

ペンネーム(ティベイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス)


原表記IMPERATOR・CAESAR・DIVI・FILIVS・AVCVSTVS
生没年紀元前42年11月16日 - 紀元14年3月16日
在位期間紀元14年9月18日 - 紀元年8月19日
廟号S・P・Q・R・Tiberius Ceaser divi Augustue Firius Augustus,Pontifex Maximus,Tribuniciae PotestatisⅩⅩⅩⅡ,ImperatorⅧ,ConsulⅤ
ローマ共和国・ティベリウス・カエサルとアウグストゥス神の息子・最高ローマ神殿司祭・弁護監32回行使・統領5回・インペラトール歓呼21回・国父・大神祇官

CV:土師孝也


 本名ティベイウス・クラウディウス・ゲルマニクス

後のアウグスタリウィアが後のプリンケプス・オクタヴィヤヌス(アウグストゥス帝]])再婚する前に、ローマ軍将校兼元老議員の夫ティベリウス・クラウディウス・ネロ(TIBERIVS CLAVDIVS NERO)との間に設けた息子である。最高指導者・元首就任以前から非常に優れた優れた(帝国軍)の武官的ローマ軍軍指揮官(騎士)であることが有名で、実質的な総司令官だったマルクス・アグリッパの元でパルティア王国・ローマ領ゲルマニア・ローマ領パンノニア・ローマ領イリュリュクムで起こった反乱鎮圧のために出勤した。


 BC12、実質的な総司令官アグリッパが亡くなると、その後任の総司令官に実質的に就任し、軍事的才能0の共和国と市民の元首アウグストゥス政権を政治局員的議員として補佐した。(ローマ皇帝の皇族と標記されることが一般的である)

 

 年老いたアウグストゥスは、ティベリウスはアウグストゥスの命令によりプリンス・アウグストゥスの娘ユリーアと強制的に婚姻させられた。ティベリウスは老いたアウグストゥスの猜疑心による仕打ちをくらい、同年そのためすでに第1子ドルースス・カエサルをもうけていた妻と離婚させられた。その上、自身の仕事の後任者にティベリウスの息子であったドルーススを当たらせようと養子縁組をし、民会と元老院(セナートス)とローマ軍に根回しをした。


 しかし、溺愛していたドルーススは30代で戦死する事件が起こる、動揺したアウグストゥスはドルーススの息子で恋人のように溺愛していたガーユス・カエサル公認候補としたが19歳で病死した、仕方なく、あんまりかわいいので食べてしまった次男ルーキウス・カエサルを後任者として決めていたが14歳で病死した・・・。ローマ親衛隊はもともとガーユスとルキウスのために作ったようなものだったらしい。(古代ローマ時代でも養子縁組とかは年少の養子縁組などでは恋人少年愛的になることがマナー違反ではなかった。当時と現代ではマナーがけっこう違う。)


また、BC9トイトブルグ戦争においてゲルマニアでローマ軍団3軍団の兵士がゲルマン族の奇襲にあい皆殺し壊滅に会うなどしてアウグストゥス政権とアウグストゥス本人の動揺と猜疑心が強くなった。『ティベリウス!!、このハデス(死神)めが!!』的な切れかたをしたと思われる。老いたアウグストゥスは不幸の手紙的な迷信的災難を信じると考えられるので、ティベリウスを恨もみ妬むようになった。


 こうしてティベリウスのアウグストゥスの評価は死ぬまで最悪になったままになり、後代の歴史でも「ティベリウスはその人物その物(性格含め)アウグストゥスから忌み嫌らわれていた」という評価がついたと思われる。 冷静・怜悧な人間性を長所としている場合でも、意外に困難に直面すると脆く、信心深さは嫉妬や劇場の裏返しの時もある。



 アウグストゥスの性格は本質的に引きこもりであり、なおかつ夜神明新世界の神)目線でも、「ハハハハハ」と高笑いしていじめても別に平気な地位であったので、相当陰湿だった模様。


『死神ハデスめが!!』とことあるごとアウグストゥスに言われ続けティベリウスは、アウグストゥスによる今までの仕打ちに耐え切れずBC6にロードス島に隠遁を決め込む。


 アウグストゥスはローマをローマ共和国(S・P・Q・R)であり、自身を君主のように振舞うことひかえ、なるたけアウグストゥスの絶対権力の独断は非常に疲れるので用いずに既存の共和制のシステム(ローマ民会元老院による選挙による合議制)で解決しようと努めた。当然プリンケプス(第一人者・ローマ帝)の地位についても後任は最高国会に当たるローマ民会(コミーティア)において「形式的」であっても選挙で選んだ形で踏襲させるか、或いは才能ある人間が自身の後任者として立候補して選ばれる事を望んだと思われる。しかし、アウグストゥスは不確定な選挙で選ばれる人間に全てを託す勇気が無かったと思われる。これについては基本的に「アウグストゥスは後任者を他人に譲る事は許しがたかった」という定説が普通である。


しかし上記のとおり、アウグストゥスお気に入りの後任者的なイケメン美少年候補は連続して亡くなった、元老議員から後任者を見出そうとしたが、ほとんど粛清してしまった上、この忙しい仕事を引き受けてもらえる人物は出てきそうになかった。アウグストゥス自身も後任者を「選挙に託す」勇気がもてない。いっそのこと、死んだ後の事など投げてしまっても良いかもしれないが、また権力争いで内乱が再燃し今度こそ共和国は灰燼に喫するだろうと考えた、さすがに内乱を終結させた人が、そこは無責任なのはいかんのではないかと思った。


 しかもアウグストゥスは軍事的才覚0であるから直接軍に指揮をだそうにもまったくきちんと動かすことが出来ない人間であった。機能不全に陥ったローマは事実上の存亡の危機に陥った(笑)


 しかたなくいろいろ考え招いて、妥協をし、悶々と寝不足になるほど、悩んだ末に死神ハーデスと罵っていたロードスにいるティベリウスに戻ってきてもらって、後任者になってもらう事にした。ローマ軍をきちんと動かしてもらうため、この判断は共和国のための事である。


 BC4、ティベリウスは老アウグストゥスから『全軍司令官(インペラー)』の職を兼任する、事実上の後任者に決まった


 AD14「初代ローマ皇帝」アウグストゥス(オクタヴィヤヌス)が亡くなる。引きこもりがち美少年タイプで仕事が出来ないヘタレボウヤだった人。しかし、彼は18歳から76歳で亡くなるまで最高権力者のポジションをキープする人生を成功させたオクタヴィヤヌスが。後任者に、自分と同じような雰囲気を持つ若者を後任者にしても、自身と同じことが可能だと思っていたのかもしれない。ただし、彼みたいな「性格の比較的いい、かなり優秀な王子様的最強権力者」は以降の歴史においてもついに出てこなかった


 BC2ころ、ローマ領パレスチナ地方ナザレで後のイエス・キリストキリスト教開祖)となる人物が生まれる。彼の誕生により紀元後紀元前の区切りが生まれた。キリストの誕生の記録は、新約聖書に登場するローマ帝アウグストゥスの人口調査がきっかけとなっている。


ようやく彼ティベリウスのことが書ける。


アウグストゥス


  同年AD14、ローマ元老院(セナートス)とローマ市民(ローマ市民会議.コミーティア)よりローマ最高指導者(ローマ帝・ローマ皇帝)に就任したティベイウスは、カエサルとアウグストゥスの元首政イデオロギー路線にそったローマ共和国政治を行うとした。第一人者(プリンス)としてのペンネームは『ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス』を明記した。アウグストゥスをローマ神の一柱に加ることを元老院と民会で決定、後の歴代指導者(ローマ帝・事務局長)の神格化の先例を作る。(ソビエトや中国・北朝鮮の書記長の神格化に近いと思われる。)


 ローマ領パンノニア、ローマ領ゲルマニアで相次いでローマ軍の反乱、同盟国関係であった東ローマ地方のパルティアとの内戦など大規模な戦争行動が起こったが、先の軍事的才覚0のアウグストゥスと違い、ティベリウスは就任するまでに幾多の反乱を鎮圧を指示し全軍を率いた経験もある人間であった。杞憂な才能を持った引きこもりのアウグストゥスとは根本的に違う、大いに経験のある職業人であったから対応が出来た。全軍司令官であるティベリウスが直接ローマ軍を指揮し、前線まで赴いて鎮圧におもむいた。結果的に功を奏し、全ての軍事行動において完勝をはたした。反乱したローマ軍の将兵やゲルマン人は軒並み粛清された。

 

  AD17年にはティベイリスの企画した侵略戦争でローマ共和国・ローマ軍はアナトリア半島カッパドキアを征服に成功。ローマ領カッパドキアとした。しかしこれほどの戦果をのこしても、ティベリウスは自身の存在を『プリンス』と拘り、好意的なオベッカやプロパガンダ的なものを、全て法にのっとり廃した。ティベリウス自身の祝賀行事をした責任者や参加したローマ市民に対しローマ親衛隊フル活用し厳罰に処した、また、ローマ市民を犯罪から守るためという名目で親衛隊をフル活用し公然と人々を監視し摘発した。ここら辺の石頭加減がローマ人には『暗い・怖い・気味が悪い(タイラント』と呼ばれるに至る原因だった。ティベリウス自身の性格から言って素直に喜んだりすることが出来ない性分だったのかもしれない。(ハリー・ポッターセブルス・スネイプ教授みたいなかんじだったのじゃないだろか。)


 内政においても多難続きで、ティベリウスには養子のゲルマニクス(カリグラの父)の最高指導者擁立クーデターが勃発する、幸いこの一見で大惨事は起こらなかったものの(首謀者は粛清)、ゲルマニクスとティベリウスの人間関係は冷え切る


 ティベリウスはアウグストゥスと同じく絶対権力を極力行使しない形で、既存の共和制で(ローマ民会・元老院)の合議に統治をさせていたが、元老議員との関係ははなはだかんばしくなかった。アウグストゥスのように人間不信におちいってもあまり支障がなく仕事ができ、40年も公式で独裁者でいられたことが不思議でしょうがないということだろうか、これは引きこもりの才覚なのだろうか。


 アウグストゥスよりは厳格な仕事人間(リゴイスト)としてはまともなティベリウスだったが、独裁者でいることは心身に非常にきつかったようだ。その後しだいにティベリウスは元老議員に政府閣僚の仕事を任せなくなり、ローマ親衛隊長官のセイヤヌスにほとんど枢機を任せるようになった。後に彼を執政監(コンスル)に任命し公式に副全軍司令官・副第一人者の地位をもつ事になる。最初は純粋にティベイウスを補佐する形で仕事を行っていたL・A・セイヤヌス(BC20-AD20)も、しだいに野心に火がつき次代の第一人者(ローマ帝・事務局長)になる事を望むようになった。セイヤヌスは気に入らない人物ら・ローマ市民を含めティベイウスに『反逆疑い者』として報告した、ティベイウスもローマ親衛隊フル活用し次々に大量粛清処刑)させた。結局、この報告されて処刑することを繰り返した結果ティベイリスの治世ははアウグストゥスの治世を上回る人々が殺された。結局、ティベリウスの治世は評判がわるくてあたりまえなのじゃないか。ティベリウスはローマ市民から歩いていても〈怪物君主タイラント〉と忌み嫌われるようになり、かれは引きこもらざるをえなくなった、スネイプ状態に拍車がかかったのである。



このどさくさの粛清に養子ゲルマニクスの家族も巻き込まれ、三男ガイウス・カエサル・ゲルマニクス以外の長男、次男が残虐に殺害された。当のゲルマニクス自身はAD19年に35歳の若さで赴任先の前線で急死していた。



 AD26年、首都ローマにいることが耐えられなくなったティベリウスみんな敵に見える危ない精神に陥ったティベリウスは療養のためカプリ島に静養を開始した。ティベリウス自身も何とか『前向きな愛嬌ある性格』になろうと努力を始めた。それはアウグストゥス帝のように、かれは変わった性癖あることが多少公然としていたが、それでもローマ市民からの評判を落とす事はなかった。しかし、ティベリウスにはそうゆう性癖には基本微塵も無い性格であった、ティベリウスは良く言えば『武官軍人の鑑』のような公私含めスキのない偉人のような人絵に描いたような良質な家庭、悪く言えば酷く冷たく微塵も家庭的ではなかった。


 ティベリウスはこの『ローマ武官の鑑というかその物』という超堅物イメージを払拭し、愛嬌のある超わるオヤジをやろうとかれは、カプリ島の別邸に彼とは富裕層の姉弟から美少年美少女を掻き集め、惨殺してしまったカエサル・ゲルマニクス君も仲直りして、一緒に風呂にはいったりして悪い事した。また、美少年・美少女同士に裸の付き合いをさせたりしていた・・・


 ...「チョイ悪オヤジで。若者とも話せる愛嬌あるだろ。。しかし何が面白いのか解からぬ」というかんじだったのだろう。しかし、しかしだ、客観的に見ればこれいじょうないほどの親父によるグロテクスな状況でスキャンダラスなことであった。この事件はローマ建国史上初めての恐るべき醜聞の最初となり、後代の最高指導者の醜聞の先駆けである。


完全に「ティベリウスのイメチェン」は失敗し、ローマ市民および、元老院。他ローマ領の地方民からもドン引きされるという大惨事がおこる。

スネイプ通り越して名前を言ってはいけないあの人闇の帝王)レベルの嫌われ方となった・・。名実共にリアル死神ハーデス(ローマ名、プルート)となり果ててしまった。


ヴォルデモート様


 ローマ中央の政治は野心に燃えるセイヤヌスとその徒党の支配に拍車がかかるが、ティベリウス自身もさすがに余りに多くの人々を罪も無く処刑してきたことを疑問に思い始める。そして結局セイヤヌス自身が最悪な事をしてくれたと結論をつけ、セイヤヌスを罠にはめる事にした。結果は成功しAD31年、L・A・セイヤヌスも即刻処刑されその徒党・一族含めも親衛隊により粛清された。しかしこれによってティベリウスに対する当時のローマ市民の評価が良くなる事は無かった。逆にセイヤヌスの家族・支持者らが少年・少女をふくめ親衛隊によって一律惨殺された事がニュースとして広まり余計にティベリウスに対して冷血漢という悪評が高くなった。

 

 AD30、ローマ領ユダヤ統領(属州総督)ポンティオ・ピラト(PONTVITVS PILATVS)はユダヤ教本部からの嘆願で救世主(キリスト教開祖)を名乗る過激派の男をゴルゴタの丘で磔処刑したとの報告がカプリのティベリウスに入ったとおもわれる。


 ティベリウスはセイヤヌスを処刑したあと7年後のADカプリ島で亡くなった。

粛清ばかりしていたことと、不明瞭な言語とローマ市民の皮肉も手伝って、民衆にも不人気な最高指導者の死はローマ市で歓迎された。


〈参考文献〉

世界百科事典19巻P77(弓削 達)


関連

次代☞カリグラ


ローマ帝国 ローマ皇帝 アウグストゥス

キリスト教 イエス・キリスト


カプリ島


〈参考文献〉

世界百科事典19巻P77(弓削 達)


〈イラスト〉

ガッタメラータ(bryan)

ヴォルデモート(ンカイ@Twitter)

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