前田慶次
まえだけいじ
概要
本名は前田慶次郎利益(まえだ けいじろう とします)。
生没年は天文2年(1533年)~慶長17年(1612年)若しくは天文10年(1541年)~慶長10年(1605年)等諸説ある。
滝川一族の出身。
父親は、滝川一益の従兄弟である滝川益氏、同じく滝川一益の従兄弟(甥ともいわれる)である滝川益重、滝川一益の実兄である高安範勝と、此方も諸説あり。また、一益の齢の離れた弟という説も存在する。
当時の前田家当主・前田利久に子がいなかったことを理由に、妻の実家である滝川家から養子として送り出される。利久の弟である前田利家とは、この縁組で義理の甥・叔父の関係となる。
(ただし年齢的に大きな開きはなく、上記の生没年によっては利家よりも年上になる)
養父・利久は尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)を預かる城主であったが、体が弱く常々病を患い「武者道御無沙汰」の状態にあったため、主君・織田信長の命により利家が前田家当主となる。これに伴い利久親子は荒子城を退去し、以降は利家に仕える立場となる。
利久が死去すると「前田家と縁がなくなった」として出奔。
理由は叔父である利家(もしくはその子・利長)と折り合いが悪かったためとされる。
出奔して以降は京で浪人生活を送る傍ら、連歌会に参加するなど文人との交流も深めた。
(なお、慶次には妻子がいたがいずれも前田家に残っており、長子・正虎は利家に仕え祖父の封地2千石を継いだとされる。)
その後、上杉家当主・上杉景勝とその忠臣・直江兼続らとの知遇を得て、上杉家に仕官。新規召し抱え浪人の集団である「組外衆」筆頭として1000石を与えられた。長谷堂の戦いにも参陣し武功を立てたとされる。その後、関ヶ原での西軍敗退により上杉家が米沢30万石に減封されると、慶次もそれに従い米沢近郊の堂森に移り住み、米沢藩に仕えた後隠棲した。
隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなどして過ごしたとされる。
人物
武勇に優れ、茶道や舞など古今典籍にも通じた文武両道の将だったが、一方で奇矯な振る舞いを好む傾奇者(カブキもの)としても知られ、豊臣秀吉に“傾奇御免状”を与えられた逸話は有名。
この傾奇御免状というのは書状があるわけではなく、その傾奇を秀吉に認められて『好きに生きるがよい』という意の言葉を賜ったということである。この際に諸大名も同席していたため、その言葉が明文化された書状と同等かそれ以上のものとして認められることになった。
なお利益に関する資料の多くが後世、江戸中期以降に作られた逸話集に拠る物で、当時の一次史料は殆ど存在しない。信州の善光寺など、僅かに彼の足跡が残るのみであった。
現代の知名度・人物像は隆慶一郎の「一夢庵風流記」および同作を漫画化した「花の慶次」(尚、“慶次”の通称はこの漫画で最初に用いられたものである)によって形成・流布され、「信長の野望」「戦国無双」「戦国BASARA」等、後年のゲーム・漫画作品によりさらに強調され現在に至る。
逸話
水風呂
慶次は常日頃から他人を小馬鹿にする悪癖があり、たびたび叔父・利家から注意を受けていた。
しかし慶次はこれを快く思わず、利家に「これからは心を入れ替え真面目に生きます」と謝罪し家に招き、風呂を馳走する。寒い日であったため利家は喜んでこれを受けるが、湯船の中は氷のような冷水で、これに怒った利家は「慶次を連れ戻せ」と共侍に命じる。しかし、すでに慶次は利家の愛馬・松風を奪いそのまま出奔し国を出てしまっていた。
傾奇御免状
慶次の噂を聞き興味をもった関白・豊臣秀吉が、ある日慶次を呼び付ける。
その際「(当日は)趣向を凝らした格好で楽しませろ」と慶次に注文を付け加えていた。
当日、慶次はマゲを片方に寄せた珍妙な姿で謁見する。秀吉に平伏するが、髷のみを正面に向け顔はそっぽを向けていた。「そのマゲはなんだ?」と聞かれても「曲がっているからマゲでござる」とトボけた答えを返した。
しかし、これは秀吉の「趣向を凝らした格好」という要求に答えた結果であり、秀吉は慶次に褒美として馬一頭を与える。すると慶次は礼もせずにその場を去り、今度は立派な正装姿で現れ改めて秀吉に礼をした。秀吉は、傾奇者の意地を通し尚且つ武士としての礼節を重んじる慶次の姿を評価し「今後は好きな様に傾くが良い」と大名たちの前で公言した。
泥大根
ある日、豊臣秀吉が諸大名を招き宴会を開いた際、慶次も(どう紛れ込んだのか)その宴に参加する。
悪ノリした慶次は猿真似の猿舞を踊り出し、座する大名たちの膝に次々と腰掛けて周ったが、上杉景勝に対してだけそれをしなかった。後に慶次は「景勝の威風凛然とした佇まいに、どうしてもその膝に乗ることができなかった」と語り「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」と高く評価したという。
後に慶次は景勝を慕い上杉家に仕官。その際、泥付きの大根を持参し「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛めば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と名乗ったとされる。
大ふへんもの
上杉の陣にて、慶次は「大ふへんもの」と書かれた旗を掲げて参陣する。
当時は濁点を省略して表記することも多く、これを見た他の武士は「新参にも関らず大武辺(ぶへん)者とは何事か」と慶次に文句を言った。
しかし慶次は「浪人暮らしが長く女房殿もおらず、不便で仕方がないので大不便(ふべん)者と書いたのだ」と答え相手をからかったとされる。
また逆に、立派な身なりの慶次が「大ふへんもの」と書かれた旗を掲げているのを見た者が、「あなたのどこが貧者(不便者には貧乏人という意味もある)なのですか?」と聞いたところ、
「いやいや、これは大武辺者と読むのだよ。武芸に優れた者の意味だ」と言ったという反対の逸話も残っている。
創作物上の扱い
花の慶次
cv:大塚明夫(カセット版) / 藤沢としや(パチンコNewgin公式) / 佐藤拓也(義風堂々!! 兼続と慶次)
天下一の傾奇者で、自らの道理で生き、自由を貫き通す奔放にして磊落な男。
『勝ち戦よりも負け戦こそ“いくさ人”のあるべき場所』と信じ、戦場では好んで劣勢な軍勢に味方する。
膂力に優れ、底無しの酒豪である一方で風流な文化人の側面も持ち合わす、正に「文武両道」を地で行く人物。
それ故か台詞にも重みと味わいがある言い回しが多く、作中でも「だが、それがいい」
「虎や狼が鍛錬などするかね」「無法天に通ず」など印象的な台詞を多く残している。
得物として巨大な朱槍を携え、人を軽く踏み殺せるほどの巨躯を持った黒馬「松風」を愛馬とする。
殿といっしょ
CV:杉山紀彰
モヒカンのような髪型をして頬に「不良」と文字が書かれている傾奇者。
こちらもやはり、上述の慶次をイメージしたキャラ設定がされている。
口調は乱暴で天下一の傾奇者を自負しているが、動物(犬猫猿熊)を拾って隠れて飼ったり、困っている人を助けたりと、心根は優しいイイ人。城下の皆さんからは「慶さん」と呼ばれ慕われている。
叔父の前田利家(CV:檜山修之)は親代わりとなって、慶次を心配して世話を焼いている。
直江兼続から(ダメ出し甲斐のある)逸材と見出され、上杉景勝とも対面し、(ほぼ強制的に)上杉家家臣となった。
戦国大戦
CV:杉田智和
戦国大戦-1570 魔王 上洛す- より追加された織田所属の前田慶次。「傾奇者」らしく派手な衣装は元より、頭の両側に脇差を飾りとして挿しているという、何ともインパクトが強いイラストで描かれている。
3コストの武力10槍足軽で、ぶつかり合いに有利な気合の特技を持つ。しかし一方で統率が2とダメージ計略や妨害計略には滅法弱い面も持つ。
計略「大ふへん者」は敵か味方が撤退するたびに武力(初期上昇値は2。以後、1部隊撤退する毎に2上昇)と移動速度が上がり、さらに槍まで長くなるという計略で、使われた側はやっとこさ敵を殲滅したと思ったら後詰の慶次が化物になっていた、ということも珍しくなく、その化物を止めようとしたら味方も撤退してさらに化物になっていってどうしようもなくなった、状況も多い。
そのため、一時期慶次ワラと呼ばれるデッキが増えた。
が、この計略で敵を倒した際に正常な処理が行われないバグが発見され、次のバージョンアップまでなんと使用禁止カードとなる。それまで厨カード、壊れカードと散々話題になっていた慶次はこの措置でさらに話題になり、「大ふべん者(折角引いても使用禁止だから)」「一夢庵獄中記(使用禁止の通称が投獄 三国志大戦のR田豊が元ネタ)」と揶揄された(ただし彼の場合は慶次のイメージや史実上のエピソードから、投獄ではなく「出奔」とも呼ばれている、同じようにver3で追加された大谷吉継も同じようなバグにより投獄されたが彼の場合も投獄ではなく「入院」と呼ばれた)。
その後は無事に出所、娑婆に戻ってきた慶次の計略効果はだいぶマイルドになり、使うだけで勝てるカードではなくなっていた。