インペラートル
古代ローマ帝国において皇帝を意味する言葉は、「インペラートル」「カエサル」「プリンケプス」の三種類が存在した。
英語「エンペラー」の語源ともなったインペラートルは元々ローマ軍の最高司令権保持者を意味する言葉で、軍人が最高司令官に対して用いる呼称であった。
ドイツ語「カイザー」やロシア語「ツァーリ」の語源ともなったカエサルは、元々初代皇帝のオクタウィアヌスの養父であり、帝国の端緒を作った終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルの家名であり、皇帝として正統な血統を受け継いでいることを意味していた。
また、プリンケプスは古代ローマが共和制であり、貴族の集まりである元老院によって政治が司られていたときに、元老院でもっとも発言力のあった人間、元老院の第一人者、名目上は市民による共和制であったために、市民の中の第一人者を意味する言葉であった。
ローマの皇帝は上記3つの言葉に加えて、初代皇帝オクタウィアヌスに贈られた尊称であり、尊厳者を意味する「アウグストゥス」を合わせ、インペラートル・アウグストゥス・カエサルの称号を名乗り、市民においては「プリンケプス」と呼ばれた。
これらをそのままの意味で訳すと『尊厳なるカエサル家のローマ軍最高司令権限を保持する第一人者』となる。またローマ皇帝の役職の意味するところは以下のようなものに過ぎない。
『尊厳なるカエサル家のローマ軍最高司令権限保持者、第一人者・執政権限保持・護民職権・皇帝属州総督・国家最高司祭』
のちに欧州の帝王観念となるローマ国家の絶対的権力者の通称や、神を意味していた中国の皇帝とは意味合いが違い、元々あった役職や権限を1つに束ねた存在でしかなかった。
現代で言うと、共和制国家における独裁的な大統領に近い。実際、皇帝が先代皇帝の血を引いている必然性はあまりなく(二代目のティベリウスからいきなり、アウグストゥスの娘婿にして妻の連れ子である)、「元老院」「軍」「市民」の三者の支持さえ得られれば、簒奪だろうと正統な皇帝として認められた(ちなみにこの慣例は名目上はビザンツ時代まで継続しており、皇帝はプロの「市民」を雇って自らの即位を祝福させている)。在位時に不評を受けるような統治をしていた場合は、「名誉の抹殺」を受けて、公式記録から名前を削り取られた皇帝もいる。
また、この役職や権限の統合体は、必要があれば分割が可能で、軍の最高指揮官が複数必要な不安定期には皇帝が増員され、後継者や兄弟を共同皇帝とする事もできた。
古代の末期には紆余曲折を経て東西に二人の皇帝ができたが、西皇帝は勢力圏が崩壊してしまい、西の皇帝位を返納された東皇帝が、その後のローマ帝国唯一の皇帝となる。
この「役職」自体は紀元前27年にアウグストゥスへの元老院からの要請を境に存在し、1453年にローマ帝国(通称「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」)皇帝が戦死するまで存在したことになっている。
共和制であるローマのローマ元首は君主であってはならないのであるが、テオドシウス大帝以前まではローマ神として崇拝されることは許可されていた。
専制君主的なローマ元首としては元老院を完全に形骸化させた『ディオクレアヌス元首』から『君主化』してゆき、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝の『バシレイオス2世』の頃に専制体制の絶頂を迎えることとなる。
国家最高司祭位を手放し、キリスト教(の正教)を国教とした東ローマ帝国では俗権のみを担ったが、やはり血統は絶対のものではなく、しばしば王朝が交代していた。
名目上のローマ皇帝
徐々に本来の意味を離れ、帝国末期には完全に君主としての称号と化してしまってはいたが、ローマ皇帝の称号の偉大さを示すかのように欧州において西ローマ帝国が滅亡した476年以後も、また近東においてビザンツ帝国が滅亡した1453年以後も「ローマ皇帝」は存在し続けた。
神聖ローマ帝国
800年にフランク王国のカール大帝が教皇の下でローマ皇帝に即位し東ローマ帝国の支配から名実共に脱した(当然、東ローマ帝国は「フランク人の皇帝」としてしか認めなかった)。その後しばらく空位が続いたもののオットー1世が神聖ローマ帝国と呼ばれる国家と密接に関係する形で「ローマ皇帝」に即位する。以後神聖ローマ帝国は、歴代皇帝がイタリアに野心を燃やし過ぎてドイツ統治に力を入れなかったせいで弱体化を続け、しばしば空位の時期をはさむも神聖ローマ皇帝の称号は(実態はドイツ王とでも言うべき程度であったが)フランツ2世がナポレオン戦争での敗戦を受けて帝国を再編し、オーストリア皇帝に即位するにあたってその地位を1806年に放棄するまで継承された(ちなみに、分かりにくい経緯だがこのときフランツはなんとかオーストリア皇帝の地位を維持したことで、神聖ローマ皇帝ではなくなってもフランス皇帝ナポレオンやロシア皇帝アレクサンドル1世と同格のままであり続けている)。
オスマン帝国
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリス(イスタンブル)を陥落したオスマン帝国スルタンメフメト2世はこれ以後スルタンはビザンツ帝国の皇帝を兼任するものと解釈していたため、「ルーム・カエサリ(ローマ・カエサル)」すなわちトルコ語でローマ皇帝を名乗った(名目ばかりでなく、実際にコンスタンティノポリスの教会の任命やギリシャ・ローマ文化の保護といったローマ皇帝としての事業も継承している)。その後も全てのスルタンではないものの、この考えを継承したスレイマン1世などがこの称号を用いた。
しかし、オスマン帝国はイスラム教スンナ派を国教としており、アッバース朝のカリフの後継者である事を主張するようになっていく。
ロシア帝国
ロシア帝国はビザンツ最後の皇帝の姪を娶っていたこと、正教会からの亡命者を受け入れていたことなどからオスマン帝国と同じくビザンツ帝国の継承者を自認していたため、はしばしば君主が「ローマ皇帝」を自称していた。しかし当時ロシアの国力が小さかったことも災いして広くは認められてはいなかった。後に国力を蓄えたロシアの君主が皇帝と認められるようになったものの、その頃にはすでにローマ帝国を継承する皇帝というより、ちょうどナポレオンが「フランス国民の皇帝」であったのと同じように、ロシア国民の皇帝という意味合いの方が遙かに強くなっていた。
漢字訳
独立国家の君主である王を従える存在であり、『中国の皇帝』が同じ位に絶大な『官職』であり、日本語で表記するならばローマ皇帝が妥当な言葉であると考えられている。
ただし同時代の中国(後漢)の資料ではローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことが大秦(ローマ帝国)国王の安敦(あんとん;アントニヌス)として記載されている。