概要
真柄十郎左衛門直隆(まがら じゅうろうざえもん なおたか)(天文5年(1536年)-元亀元年6月28日(1570年8月9日))は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名朝倉氏の家臣。五尺三寸(約175㎝)の大太刀「太郎太刀」を振り回す大力剛者の猛将として知られる。息子の真柄隆基もまた剛力で知られ、四尺七寸(約140㎝)の大太刀「次郎太刀」を使用したと伝わる。
姉川の戦いで討ち死にするが、本多忠勝との一騎打ちなど、そのリアル戦国無双な剛勇譚は、落語や講談にも取り上げられた。
彼が使ったと伝わる「太郎太刀」は現存し、愛知県の熱田神宮に奉納、宝物館に展示されている。
ちなみに、直隆隆基父子を討ち取った徳川配下の青木一重(一説に向坂(匂坂)三兄弟)が使った刀「青木兼元」は「真柄切」「真柄切兼元」とも呼ばれ、その刀匠孫六兼元の作刀の中でも最高傑作の誉れ高い一品。
登場作品
殿といっしょ
真柄直澄)
(画像右。左は弟・朝倉義景の側近として初期から登場していたが、名前が判明するのは9巻になってからで、その回の「家臣と一言」のコーナーでは直純に向け「オマエと『名も無きツッコミ二人組』といわれるのは御免だ」と発言している。椰子の樹のように高いマゲを結っているのが特徴。
怠惰な主君・義景をどうにかして戦場に向かわせようと悪戦苦闘するも遂に諦め、分家出身の朝倉景健を大将に据え、勝手に同盟先の浅井の下に向かう(筆頭家老・朝倉景鏡は反対したがすぐに言いくるめられた)。
比類なき大太刀を振るい織田・徳川連合軍を蹴散らすが、「突然名前が判明する」「兄弟で闘う」「『必ず帰る』と嘯く」「相手を侮る」「味方側から突然ageられる」と変な旗を屹立させてしまい、特徴が自分たちの比ではない程盛られた本多忠勝との戦いに破れ命を落とした。
信長の忍び
(画像右)
CV:木村昴
朝倉家武将。長さ220㎝の大太刀「太郎太刀」を振るう怪力の大男。武術は敵兵を蟻のように吹き飛ばす浅井長政や「攻めの三佐」森可成、猛牛をブン投げる細川藤孝らを凌駕する最強の「10」。
大の派手好きで荒々しい豪傑で、細かいことは気にも留めず、鉄砲を「音で人を殺す道具」だと思っているなど戦術には疎い。山崎吉家のことは「とっつぁん」と呼んで慕っている。
絵に描いたように豪快で勇猛果敢だがそれ故に戦いに夢中になると、周りはおろか自分自身すら見えなくなってしまうという欠点があり、吉家からは強く注意されているのだが、「畳の上で死ぬなら戦場で死ぬよ。それも、歴史に名が残るぐらいのでっかい戦でな。」と全く意に介していない。
金ヶ崎の戦いでは秀吉を吹き飛ばして岸壁にめりこませ、千鳥の投げた手裏剣を歯で止めて噛み砕き、彼女の忍者刀を叩き折った上、折れた刀で脚を刺されても堪えて殴り飛ばすというバケモノじみた活躍を見せるが、その隙を突かれて光秀の銃撃を肩に受け、重傷を負って戦線を離脱する。
それから半年もしないうちに姉川の戦いでも一騎当千の戦いぶりを見せるが、本多忠勝との一騎打ちの最中、千鳥から受けた傷口が開いた上、徳川兵の横槍を受けて重傷を負ってしまう。しかし命尽きるその瞬間まで朝倉宗滴の残した「武士とは勝つことが本にて候」の精神を忘れることは無かった。その壮絶な死には、忠勝をもってして「誰も貴殿を倒せなかった」「貴殿こそが最強だ…無敵はワシだがな」と敬服せしめた。