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EF70の編集履歴

2019-05-03 23:27:54 バージョン

EF70

ふうんのちからもち

1961年に登場した国鉄の交流電気機関車。

国鉄EF70形電気機関車

交流機では珍しいF軸機関車である。これは、北陸トンネル開通以後の輸送力増大に対応したためである。

既に運用されていたED70が、単機では重量のある貨物列車の牽引時に力不足であったため、業である重量とモーターの増加で補うのが主目的であったが、モータ制御が未熟なため1軸分の出力が空転で無駄になっている。(配慮がなされず粘着効率が直流機並みでしかなく、高速運転にも対応できないEF71よりははるかにましとは言えるが)。


1961年に1号機が登場。製造年次により一次形(1~21号機)と二次形(22~81号機)に分かれるが、一次形はヘッドライトおでこに一灯(メイン画像を参照)、二次形はおでこに二灯となっているのですぐにわかる。


運用

本機は、敦賀・富山の各機関区に配属されて貨物列車はもちろん旅客列車牽引した。

また、20系寝台客車牽引のために、ブレーキ増圧装置および電磁ブレーキを追加して、ブロックナンバープレート・MR管と電磁ブレーキ弁が外観上の識別点となる、高速対応の1000番台が改造によって(22~28→1001~1007)登場した。

運行区間は北陸本線の田村~糸魚川間でまさに「北陸本線の」であった。


しかし、1974年にルート短絡線である湖西線が開業すると、翌1975年のダイヤ改正で大半の昼行優等列車や高速貨物列車は湖西線経由となり、また交直切替の関係でEF81が同区間に進出すると次第に持て余されるようになる。同時に1000番代の高速限定運用が消滅する。

さらに貨物列車の削減が始まった1978年以降、車齢10年少しであるにもかかわらず1次型の殆どが余剰休車に追い込まれた。当時会計監査でDD54型の欠陥と、それによる早期廃車が問題となる事態が発生しており、余剰車は即時に廃車が出来ないまま、沿線各駅の使われていない側線で雨ざらしで放置されることになった。

その後の1980年には、鹿児島本線で使用されていたED72型とED73型の置き換え用に、二次形の62号機からラストナンバー81号機までの20両が九州門司機関区に転属となった。これは既に交流電気機関車自体が余剰化しており、転用の道が限られていたからであった。その際に、休車になっていた一次型を復活させて、転属車の穴を埋めている。(1号機を除く)

九州では軸重の関係から熊本以北の鹿児島本線長崎本線で限定運用され、たまにブルートレインも牽引したが、軸重による運用区間の限定や、ED76ですら重連を必要としない牽引定数がほとんどの列車である九州地区の機関車としては出力が大きすぎ、さらに高速貨物列車牽引用の設備(電磁ブレーキ指令器)を持っていないため持て余し、早くも1982年のダイヤ改正で全機が余剰休車になってしまった。

北陸本線に残留した車も1982年のダイヤ改正で半数が余剰休車になってしまい、最終的に1985年に全機の運用が終了、北陸・九州とも国鉄の分割民営化を見ずに全廃となった。


幻の直流電気機関車への改造計画

当型式の余剰化が問題になっていた1982年ごろに、本機を直流機に改造する計画があった。当時荷物列車牽引に使用され、老朽化が進行してしたEF58の代替として、変圧器や整流器などの交流機器を撤去し、極力粘着係数を維持するためサイリスタチョッパ制御器を搭載、また必要となる電気暖房も存置した上で直流機化する計画であった。

しかしその頃になると、水面下で当の荷物列車自体を近い将来に全廃する方針が立案され(既に将来の分割・民営化を見据えていたと思われる)、さらに1984年に予定されたダイヤ改正では、信越本線の電車化と貨物列車の削減で、電気暖房を持つEF62に大量の余剰車が発生することが確実となったため、荷物列車の廃止までの「つなぎ」としてEF62を転用することが決定され、EF70の直流機化計画は幻に終わった。

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