ミラージュ2000
みらーじゅにせん
ダッソー社
フランスのダッソーは第二次世界大戦前から続く老舗企業ともいえる。
1936年にマルセル・ダッソーが「SAAMB」を設立し、現在のダッソーの基礎になった。
現在までに数度の社名変更がされており、
1947年に「マルセル・ダッソー」、
1971年には同じく航空機製造会社の「ブレゲー」と合併し、「ダッソー・ブレゲー」に変更された。
現在の社名『ダッソー・アビアシオン(ダッソー航空機)』には1990年に変更されており、
新聞社や不動産取引、コンピュータソフト会社等をグループに擁する大企業である。
デルタの系譜
ダッソーが最初にデルタ翼機を製作したのは1950年代である。
当時はソビエトでMiG-21、アメリカでもF-102が開発されており、
デルタ翼が世界的ブームとなっていた時代だった。
フランス、ダッソーでもミステール戦闘機を基にした「ミステール・デルタ」を空軍に提案していた。
1953年に朝鮮戦争の戦訓を踏まえた要求仕様が空軍から出され、
ダッソーを含む数社の提出プランが比較・検討される事になった。
・・・と、ここでどのプランも小型すぎてレーダーを搭載できない事が判明。
そこで1956年に『マッハ2級新型戦闘機の開発計画』として仕切り直し、
ミステール・デルタを大型化した実験機を製作し、飛行テストする事にした。
1957年、この実験機から得られたデータを基に『ミラージュⅢA』が採用され、
(ミラージュⅠ・Ⅱはこれら実験機)
翌1958年に初飛行した。
5か月後にはマッハ2を記録し、欧州機初のマッハ2級戦闘機となった。
本格的な生産機は ミラージュⅢCからで、輸出もされている。
さらに生産は戦闘攻撃機型のミラージュⅢEに切り替わり、
偵察機型のミラージュⅢRも開発された。
ミラージュⅢは人気のある輸出戦闘機となり、世界10カ国に輸出された。
ミラージュ5も14か国に向けて輸出され、こちらも人気を博している。
一部の国では現在も現役を務めている。
ミラージュ5とイスラエル
1966年、イスラエルの要求に応えて簡易装備型の『ミラージュ5』が開発された。
しかし輸出直前(1967年)に第三次中東戦争が勃発し、
フランスからの制裁として禁輸措置が発令されてしまった。
1968年、輸出の代わりにライセンス契約が結ばれることになったのだが、
今度はエンジン生産契約の関係で生産ができなくなってしまった。
これに対するイスラエルの対抗策が『スパイ行為による設計図の入手』であり、
部品の大小を問わず、あわせて20万枚にも及ぶエンジン設計図は全て盗み出された。
当時、スイスではライセンス生産が許されており、スパイ組織はそこを突いたのだ。
こうして機体とエンジンの設計図が揃い、生産できるようになった。
当然フランスは大激怒。
政府は「ライセンス契約の不許可」を出すが、
ダッソーは秘密裡にイスラエルに協力して、1970年に最初の機体が納入された。
このコピー版ミラージュ5は『ネシェル』と呼ばれ、第四次中東戦争で実戦投入された。
のちにF-4と同じエンジン(J-79)を搭載したクフィルが登場し、
中古のネシェルは「ダガー戦闘機」としてアルゼンチンに輸出された。
現在は近代化改修が行われ、「フィンガー戦闘機」となっている。
ミラージュF1の登場
ミラージュⅢの後、デルタ翼の欠点を改善したミラージュF1が登場する。
この欠点とは『離着陸性能』であり、
デルタ翼ではフラップを設置しにくく、低速でのノリが悪いという欠点を改善したのだ。
低速での扱いやすさが良くなった事もあり、輸出では非常な好評を博した。
デルタの復権、ミラージュ2000
開発経緯
さて、1970年代のフランスではミラージュⅢの後継機が開発されていた。
これが対地攻撃を重視した「ミラージュG-4」で、F-111のような大型機である。
だが実用化には困難が付きまとい、最初の機は試験中に墜落している。
のちにエンジンと搭乗員の数を半減させた「ミラージュG-8」を開発しているが、
やはり可変翼の複雑さや建造工数の多さ、
重量や開発予算の超過などが災いして1975年に計画は中止された。
また、NATO4か国での新型戦闘機導入計画でもF-16に遅れを取ってしまい、
ダッソーは危機感を募らせていた。
そこにフランス政府より提示された『次期戦闘機計画 (ACF)』では、
当時としても短期間での開発が求められていた。
1976年に提示されていた期限は1982年。
新しい形態を模索している時間は無かったのである。
形態そのものはミラージュⅢのピュアデルタ(純デルタ翼)を踏襲するものとし、
デルタ翼独自の欠点は最新技術(フライバイワイア・CCV)で補う事とされた。
エンジンもミラージュG-4/8のものを流用し、開発は短期で終わらせる努力を尽くされている。
採用と輸出
初飛行は1978年3月10日だが、これでも予定より9か月遅れている。
空軍への納入は1983年で、翌年には実戦投入できるようになった。
1986年には早くもマルチロール化が模索されており、
マルチロール化された機は『ミラージュ2000-5』と命名された。
本国仕様の機はこちらに改修され、
本国仕様にはさらにラファール用レーダー(RDYレーダー)が搭載され、
グラスコクピット化されて戦闘能力が向上している。
輸出機にも適用されたものは「ミラージュ2000-5 mk.2」と呼ばれたが、
フランスは死の商人?
アメリカ・ソ連の陰に隠れて目立たないが、フランスも武器輸出大国である。
もちろん、この分野では中国が『安さ』という一番の武器を持っており、
中国製兵器の普及率は世界一である。
しかし兵器の輸入には政治的な問題も関わっており、
例えば、
・隣国(敵対国)からは輸入できない
・兵器と一緒に、政治的干渉まで受ける可能性がある
・望む兵器を望む価格で輸出してくれるとは限らない
などの問題もある。
冷戦中では米・ソ両国の政治的干渉も盛んであり、
ベトナム戦争はその結果として起こった戦争だともいえる。
(「ドミノ理論」など)
それに引き替えフランスは政治的な干渉まで行う事は少なく、
しかも『中国よりもは新式の兵器を、しかも割とあっさり売ってくれる』とあって、
「アメリカには近づきたくない、でも共産化はイヤ」という国に好評を博した。
実際、中東の多くの国が採用しており、
イスラエルやシリア、イラクなどもフランス製の兵器を使う事態になった。
(敵も味方もフランス製)
多くの国家にフランス製兵器は採用されている。
敵味方の両方に兵器を売りつける国家。
もしかして昔流行った、『死の商人』というヤツではないだろうか?
『ナイト・オブ・ザ・スカイ』(Les Chevaliers du ciel)
ミラージュ2000が主役の映画といえば、『ナイト・オブ・ザ・スカイ』(2005)が有名。
00年代の映画作品としては珍しく、「CGを使わないこと」を旨として製作されている。これは監督であるジェラール・ピレス氏の信念でもあり、作中ではフランス空軍の全面協力した成果を思い知ることができるだろう。
劇中ではほとんどのシーンで密集編隊を組んで飛行しているが、これは本来非常に危険な行為である。ほんの一瞬の間違いでも激突の危険があるし、ましてや高速で飛行している中にお互いの位置や間隔を同時に気を配りながら操縦する必要があるのである。このためには編隊の全員が高い技量にあることが必須条件で、しかも3機編隊ならば3乗で難易度が増すといっても過言ではない。
編隊飛行ですらこれなのだから、ましてや空戦機動がどれほど困難なのかを解説する必要などあるまい。すべては空軍の質の高さが映画製作を支えていたのである。
「トップガン」などと同じく、「かっこいい」を目的にしながら、アメリカとフランスではここまで表現が違うのかと、美的感覚の違いを思わずにはいられない。これが連綿と続く文化の違い、というものかもしれない。
関連動画
「ミラージュ2000」(説明映像)
『ナイト・オブ・ザ・スカイ』(ミラージュ2000飛行シーン)
『ナイト・オブ・ザ・スカイ』(ミラージュ2000空戦シーン)