明仁
あきひと
基本情報
概要
ご生誕・皇太子時代
昭和8年(1933年)12月23日、昭和天皇の第五子にして第一皇子として生誕、母は皇后・良子女王(香淳皇后)である。
『易経』離為火の「大人もって明を継ぎ、四方を照らす」より継宮明仁親王と命名される。
「大徳ある帝王は、代々明らかな徳を継承し、絶えずその明徳を明らかにしてやまず、天下四方をあまねく照らし、天下万国を君臨統治なさる」という意味とのことである。
成子内親王、祐子内親王、和子内親王、厚子内親王と皇女が続いた後の最初の皇子である。
昭和11年(1936年)、当時の皇室のしきたりにより、満2歳からは家族とは切り離され東宮仮御所にて養育される。
昭和15年(1940年)4月、学習院初等科に入学、太平洋戦争の激化により、昭和19年(1944年)、」東京より当初は日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光の南間ホテルに疎開、翌昭和20年(1945年)8月、当地にて終戦を迎えられた。
大戦後、学習院で学ばれたが、昭和21年(1946年)10月から4年間、アメリカの著名な児童文学者ヴァイニング夫人を家庭教師に招き西洋の思想と習慣を学んんでいくこととなる。
昭和27年(1952年)、立太子の礼を受け、正式に「皇太子」となる。
昭和28年(1953年)、イギリスのエリザベス女王の戴冠式に名代として参列、欧米各国の公式訪問も兼ね、「皇室外交」の先駆けとなった。
昭和34年(1959年)4月10日、民間から正田美智子嬢を皇后に迎える。
当時テレビの普及はまだまだであったが、「世紀の御成婚」の中継を拝見しようと、この年のテレビの契約台数は200万台にはね上がった。
昭和35年(1960年)2月23日、には第一皇子・浩宮徳仁親王が誕生。その後、礼宮文仁親王(秋篠宮)、紀宮清子内親王が誕生となった。これまでのしきたりを破り、乳母を用いずに自らの手で育てる、皇室の新たな在り方を示すこととなった。
昭和39年(1964年)、東京オリンピックの後に行われたパラリンピック大会において、名誉総裁を務める。
皇太子時代から本土復帰前から沖縄に心を寄せていたことでも知られる。
沖縄から上京する小中学生との「豆記者」らとの交歓を続け、専門家から沖縄の歴史や文化を学び、琉歌を身につけ、昭和50年(1975年)、沖縄の南部戦跡において哀悼の意を詠まれた。
「摩文仁」と題されたこの琉歌は、沖縄では毎年の戦没者追悼行事において紹介されている。
昭和52年には沖縄海洋博の開会式にも出席されている。
即位
昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇の崩御後、歴代2位の高齢で皇位を継承・即位、翌1月8日には平成の元号が建てられた。「天下の水陸共に平穏となり、万物はそれぞれの成育を遂げる」という意味の元号である。
即位の大礼は、翌平成2年(1990年)11月12日に挙行された。
以来、今上天皇は積極的に公務をとられ、「国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています」との日々実践されている。
日本各地に精力的に皇后とともに行幸され、全47都道府県の巡幸を果たされた。様々な式典にも参列し、国民との距離を縮められている。
雲仙普賢岳火砕流を皮切りに、阪神淡路大震災や新潟県中越沖地震、三宅島噴火、伊豆大島土砂崩れなど、自然災害による甚大な被害が発生すると、被災地を訪れて大勢の被災者たちを労わられている。
外遊でも世界中を訪れ、各国元首や現地住民、現地在住日本人などとも活発に交流をされている。
天皇の旅は先の大戦の慰霊と哀悼の旅でもある。
平成5年(1993年)、即位後初めて沖縄を訪問、歴代天皇のなかでも初の沖縄訪問であった。
平成6年(1994年)、硫黄島へ慰霊のために訪問、以後も慰霊のためのご訪問を切望されたた結果、平成17年(2005年)、サイパン訪問が実現した。
平成23年(2011年)3月11日、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災が発生、3月16日に今上天皇は全国民に向けてビデオによるお言葉を発表された。
そのメッセージの主眼は「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」という点であった。
そして天皇はみずから「苦難を分かち合」う先頭に立たれようと、外国大使の信任状奉呈式や閣僚などの認証式といった国事行為の案件にかぎって使用する以外に皇居の宮殿を閉鎖され、御所でも東京電力による計画停電の対象外であったにもかかわらず「自主停電」を実施された。
那須御用邸(栃木県)の職員用浴場を避難者に開放され、御料牧場の卵や野菜、缶詰などを避難所に送られた。
東京都内や埼玉県の避難所を訪問、被災者の慰問がなされたのもこのときである。
一方では3月末に予定されていた静養は見送られ、4月末の遊園会も中止された。
その中で、平成12年(2000年)以降は健康を害されることが多く、癌や肺炎など様々な病気により入退院を繰り返されている。
譲位へ
平成28年(2016年)7月13日。陛下は宮内庁関係者に「譲位」の意向を示されたという。陛下は「憲法における象徴として公務を十分に果たせる者が天皇の位にあるべきで、公務の軽減や代役(摂政)などで自身の留位は望まない」との考えで、数年以内の皇太子殿下への譲位実現を望まれている。
8月8日に陛下は象徴としての務めについてをビデオメッセージで伝えられた。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日
戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。
私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。
本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。
そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間かん私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯もがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀そうぎに関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように,憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。
退位や譲位は歴代天皇において珍しくはないが、江戸時代後期の光格天皇を最後に明治以降も平成に至るまで退位は約200年間なく、皇室典範でも退位の規定は記されていない。規定がないのは、譲位によって上皇ができることで、新旧天皇による二重権力が起こる恐れから譲位を記さなかった。現在でも天皇の終身制を改めた「皇位定年制案」の議論も存在する。
ただ議論で時間を空費するのは適切ではないことから、特例法で今上陛下の退位と皇太子殿下への譲位が決まり、その期日は平成31年(2019年)4月30日とされた。
同時に皇太子殿下が即位となるが、改元は昭和→平成同様即時ではなく(大正→昭和は即日であった)、翌日(5月1日)から新元号となる。この新元号については改元前1か月を猶予期間として2019年4月1日に公表、同日に「令和」と発表された。
人物や逸話
- 実は左利きであったが幼少期に矯正を受けられて、その後は両利きとのことである。
- 奥日光に疎開されてた時は東京の昭和天皇と手紙でやり取りをされ、その中には昭和天皇の敗戦の原因についても書かれていた。
- 疎開先での授業の際に特攻を説明されていた将校に「何故特攻をしなければならないのか?人的戦力を消耗するだけではないのか?」と率直な質問をされ、その場にいた誰もが返答に窮させてしまった。
- 「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念をお持ちとのこと。
- 卒業間近の学生時代のとある日、学友2人とともに東宮侍従長に黙って銀座へ遊びに出かけ、喫茶店でコーヒーや洋菓子店でアップルパイや紅茶を楽しまれた。後に「銀ブラ事件」と呼ばれた騒動である。
- この決行日について学友は「最後の期末試験の後で(皇宮警察の)ガードが堅くないのか?」と訝しんだそうだが「いや今が一番緩みきっている」と即答されたという。宮様とはいえ高校生に出し抜かれる侍従長や警察って・・とのことだが、実は影伴がついていて、たくらみは筒抜けだったとの逸話が残されている。
- 自動車愛好家としても知られ、英・デイムラーや伊・アルファロメオに始まり、プリンス自動車・プリンスセダン(その他同社製9台) ホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラなど実際に運転したことのある車種が非常に多い。皇太子時代の1953年には、ヨーロッパを外遊中にF1ドイツGPを観戦された。この時、表彰式のプレゼンターを務められたというが、これがF1の表彰台に立った初めての日本人らしい。2010年に放映されたテレビ番組でも天皇自らがハンドルを握り、助手席には皇后が、後部座席には侍従が同乗する映像が流れている。
- 鉄道に関する関心も深いが、その一方で特別扱いを嫌い国民に迷惑を掛けたくないと配慮される人柄でもあり、公務による長距離移動の際は宮内庁専用に用意された御料車よりも一般車両を借り切るお召し列車を使われることが多い。
- 平成13年(2001年)に桓武天皇が韓国王室と血縁関係を持っている点について発言され、韓国でも大いに関心を集めた。
東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)
この度の東北地方太平洋沖地震は,マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり,被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し,犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また,現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
現在,国を挙げての救援活動が進められていますが,厳しい寒さの中で,多くの人々が,食糧,飲料水,燃料などの不足により,極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより,被災者の状況が少しでも好転し,人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして,何にも増して,この大災害を生き抜き,被災者としての自らを励ましつつ,これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います。
今回,世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き,その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
海外においては,この深い悲しみの中で,日本人が,取り乱すことなく助け合い,秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体からだを大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,国民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。
(※宮内庁ホームページより)