概要
1936年2月3日、東京都出身。本名は四至本豊治。
ペンネームは他に「大伴秀司」由来は荒俣宏によれば、「姓をローマ字にして並べ替えた」可能性(SISMOTOをOTOMO・SISに)があるという。
両親の都合により幼少時はメキシコで過ごす。かの地での怪物像と、(ご両親クソ忙しいので構ってくれず、メイドも夜にはデートに行くので「食事も自分で」しなければという)自立を強いられる環境は、後々大きな影響を及ぼした。
慶応義塾大学卒業後、不動産鑑定士の資格を取り同人作家として活動。1961年に文壇デビューを果たす。1964年から『少年キング』『週刊少年マガジン』等のSFコラムの作成に携わった。
『ウルトラQ』企画段階から円谷プロダクションでSF設定に協力し、いわゆる怪獣図鑑を少年誌等に掲載。今や常識である「ウルトラマンは地球上に3分しかいられない」というナレーションも、大伴が考えたものである。
だが内部図解などで何でもかんでもウルトラの設定を可視化していく方針は当時の円谷プロ社長・円谷一(円谷英二の長男)から「神秘性を損ねる」「父は刺激ではなく夢を与えろと言っていたのにこれはグロくはないのか」と怒りを買うこととなり、円谷特技プロから出入り禁止を食らうことになる。更に、1971年に『小学二年生』付録に付けたカードでスペル星人に「被ばく星人」という二つ名をつけたため、間接的にスペル星人の登場した『ウルトラセブン』12話「遊星より愛を込めて」を黒歴史化させた一端を担っている。
とはいえ、大伴の実際には存在しない「怪獣」を実在する生物のようにありとあらゆる方法で設定を付与して掘り下げた手法は第1次怪獣ブームの最も大きな原因であることは疑いようもなく、今上天皇(令和天皇)陛下すら大伴の怪獣図鑑は大のお気に入りであったと言われる。大伴が果たした功績はあまりにも大きく、彼がいなければ今の特撮やSFアニメの躍進は無かったかもしれない、というのも過言ではない。
大学時代から肺を病んでおり、「長くは生きられないから」とよく口にしていたらしい。
1972年1月27日、気管支炎の薬の副作用で心臓発作を起こし永眠。享年36歳、早すぎるウルトラの星への旅立ちであった。
大伴は晩年、一との仲直りをいつも口にしていたという。だがその思いが届くことなく、大伴の没後1月と経たず、円谷一は脳溢血でこの世を去った。
また彼は二十歳代の頃、「アメリカで遊園地の経営を勉強したい」と言っていたという。そしてゆくゆくは、「関西の土地」へディズニーランドを立てる予定であったそうである。
実家の隣にアパートを建設し、そこで文筆活動を行っていた。そこには、実家との連絡路はあったものの、その隣家が自分といかなる関係を持つかを含めた、プライヴァシーに関するものは一切公表しなかったため、星新一なども、大伴の死後、彼が四至本という大御所の息子であるという点までを知り驚愕したと語っている。
関連イラスト
やはりというかなんというか、大伴の確立したグラビア記事をパロディしたものが多い。