ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

アンドレ・ザ・ジャイアントの編集履歴

2020-06-01 00:59:43 バージョン

アンドレ・ザ・ジャイアント

あんどれざじゃいあんと

アンドレ・ザ・ジャイアント(1946年5月19日~1993年1月27日)とは「世界8番目の不思議」「人間山脈」「一人民族大移動」の異名を持つ、元外国人プロレスラー。

概要と呼ぶには巨大すぎる!

本名:アンドレ・ルネ・ルシモフorロシモフ(André René Roussimoff)。フランス・グルノーブル出身(但し、フランス北中部のクロミエという町が出生地)。全盛期は身長が223cm、体重が236kgという文字通り超巨漢で鳴らした。

圧倒的な体格もさる事ながら、それに奢らない絶妙なプロレステクニックと、高い身体能力も持ち合わせていた。


ちなみに「東洋の巨人」と言われた、ジャイアント馬場より14cmもデカイ

ただし、この公式データには異論もあり、実際の身長はさらに高かったのではないか? とも囁かれている。

新日本プロレスレフェリーで、外国人レスラーの相談役でもあったミスター高橋氏の証言によれば、とある宿泊先のホテルで、アンドレの頭が天井の照明に当たって割ってしまった。状況を確認しに来たホテルのマネージャーは割れた照明を見上げて、「アレに当たったんですか? 2m40cmはありますよ」と、文字通りのびっくり仰天だったという。

アンドレは身体の成長が止まらない一種の病(巨人症)を患っていたと言われ、身長が公式記録より伸び続けていた可能性は十分にあり得る。


(因みに出生時の重さは13ポンド《5897g》とその巨人症の前兆が窺え、そこから10代までは平均的な身長であったものの10代を過ぎて間も無く、急激に成長。14歳の時には6ft1inch《約183㎝》、213lb《97㎏》を記録、その翌年には身長は6ft7inch《2m》を越えたという。)


生き様と呼んだら人口の辻褄が合わない!

第二次世界大戦が終結して間もない1946年5月19日にブルガリア人の父ボリス・ルシモフとポーランド人の母マリアンヌ・ルシモフの三男として生まれた。父親と母親は共に東欧からフランスに移住してきたスラブ系移民だったのである(前述の出生地クロミエもまた、スラブ系の文化遺産が多く残っている事でも知られている)。


元々はフランスでもいい所のお坊ちゃん(実家は広大な農場を所持していた農家であった)で、少年時代からサッカー、ボクシング、レスリング、クリケット等のスポーツに打ち込んでいた。因みに運動神経が優れており、体重が増加する頃の前まではバック転が出来たり、体重が増えてからも水泳ではクロールで速く泳ぐ事が出来たという。

学業でも優等生であったが、14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業(日本とは異なり、フランスでは11歳から14歳までの4年間が中学校での就学年数《ひいては義務教育も14歳まで》である)した後、「農家出身者の自分には高等教育は必要ではない」と思った為か高校へは進学せず、数年間実家の農場で働いたり、木工の見習いに励んだり、ベーラー(干し草や藁を梱包する為の農業機械)専用エンジンの製造工場で働いていたという。因みに彼の兄のジャック・ルシモフの証言によれば、アンドレは「一人で3人程の仕事が出来た」という。その後、パリに移住してからは家具運送会社に勤務している所を「マット界の魔術師(日本での異名)」ことエドワード・カーペンティアにスカウトされ、プロレスの世界に入る。


(因みに漫画『プロレススーパースター列伝』等にある、プロレスの世界に入る前はとして斧を振るって仕事に勤しんでいた所をカーペンティアに『発見』され、そのままスカウトされたという話は有名だが、フィクションである。但し、カーペンティア自身が無名の頃のアンドレに目を掛けてサポートをしていたのは事実である。)


18歳の時にパリでデビューした、南アフリカでデビュー戦を行ったなどフランス時代の経歴についてはよく判っていない(因みに英文版Wikipediaによれば、地元パリのプロレスプロモーターであるオベール・ラゲアの元で夜は練習に打ち込み、日中は引っ越し業者として働いて生活費を稼いでいたといわれている)。デビュー当時から来日直前までは「アンドレ・ザ・ブッチャー・ロシモフ」や「ジェアン・フェレ(『巨人フェレ《Géant Ferré/Giant Ferré》』という意味であり、後述の『ジャン・フェレ《Jean Ferré》』とは異なる)」、「モンスター・エッフェルタワー」と、幾つかの名義で活動していたが、後述の国際プロレスに来日した際には国際プロレスの社長であり、元プロレスラーの吉原功から「モンスター・ロシモフ」と命名され、この名前で国際プロレスのリングに上がっていた。


1970年にカナダ・モントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレの名で活躍した。

この頃、国際プロレスに初来日を果たす(参戦)。また、この頃に「帝王」の異名を持つバーン・ガニアと出会い、そのガニアから更なる多くのレスリングテクニックを学び、後の「圧倒的な体格もさる事ながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつける事が出来る巨人レスラー」としての基盤を固めてゆく事になる。


1973年アンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、WWWF(現WWE)のプロモーター、ビンス・マクマホン・シニアと契約。

しかしWWWFとは専属契約をした訳ではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWA・AWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的かつ短期参戦でサーキットして回る様になる(所謂「レンタル移籍」)。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。そのお陰か、この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレは全米の有名選手達と闘った。また各プロレス協会から一定の契約料を得た為、1974年のギネスブックでは「年俸世界一《40万ドル》のプロレスラー」としてアンドレは掲載された。


尚、1974年当時は1ドル=300円であり、当時の日本円に換算すると1憶2000万円(現在の金額に換算すると推定で10億~12億円)をアンドレは稼いだ事になる。また、その当時野球(特にMLB)やサッカー等のスポーツでも億単位程の年俸を稼いだ選手は滅多にいなかったと言われている。


更にその同年、WWWFと提携していた新日本プロレスに本格参戦。それと同時に愛着のあった国際プロレスにも特別参加した事がある。また、新日参戦時期には伝説のスタン・ハンセンとの「田園コロシアムの一騎打ち」を抜きにしては語れない。

新日本プロ参戦時のアンドレは、前述のジャイアント馬場をも凌ぐ巨体と圧倒的な強さから、専らヒールの扱いで、本人もそれを受け入れ、かつ意識してファンを遠ざけていた(※)が、一方で一種の“愛嬌”も持ち合わせており、登場時に花道以外での通路から出て来てファンを驚かせたり、後に“世界最大のマスクマン”、ジャイアント・マシーンをノリノリで演じている(話を持ちかけたミスター高橋氏は、あまりのノリの良さに、逆に面食らったとか)


(※)(また「日本人嫌い」というイメージが損なわれない様に新日本時代の中盤頃からはサイン等のファンサービスはほとんど行わず《プライベートでもファンがサインを求めに来ると『Get awey!!』『Get out!!』(どちらも『出て行け!!』)と、また試合中にファンがアンドレに応援すると喜ぶ処か逆に『Shut Up!!(黙れ!!)』と怒鳴ったり、マスコミの取材に応じる事も少なかった上に、挨拶の際に渡した名刺の枚数も数えられる程であったという。但し、元々は親日家であり、国際プロレス時代や初期の新日本時代には気さくにファンとの撮影に応じたり、後述する全日本プロレス時代には馬場とタッグを組んだりする機会が多い為に自然とベビーフェイスに転じ、『アンドレコール』が起きれば笑顔で応じたり、コールの際にはファンに向けて二本指を立ててアピール、花束贈呈の際は受け取ると即座にブーケトスの様に後方の観客席に向けて花束を投げてプレゼントする等の計らいを見せる様になった。)


1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。またアメリカではアンドレは絶対的なベビーフェイスの存在であったが、1987年にヒールターンして長く抗争を続けていたボビー・ヒーナン率いる「ヒーナン・ファミリー」に加わり、第3回レッスルマニアでは嘗ての盟友だったハルク・ホーガンと初めてWWF(WWE)世界ヘビー級王座を賭け、激突した(但し、ホーガンがまだWWFに入って暫くはヒールであった頃にもアンドレはアメリカ、日本等でもホーガンと数戦交えている)(※)。


(※)結果としては前半にホーガンをほぼ一方的に攻めるものの、後半から「ハルク・アップ」を見せたホーガンに逆襲され、ボディスラムで投げられた上にとどめのランニング・レッグドロップをまともに受けてアメリカでは史上初のピンフォールを奪われてしまったが、翌1988年2月5日の"The Main Event"でもホーガンと再戦。結果としてはまたしてもホーガンからランニング・レッグドロップからのピンフォール負け……、と思いきや当時「メガ・バックス」として組んでいた「ミリオンダラー・マン」ことテッド・デビアスと黒人ボディガードの「バージル」ことマイク・ジョーンズがレフェリーと揉め合いに持ち込んでカウント妨害を働き、フォールを解いたホーガンがレフェリーに『カウントを取れ!!』と詰め寄っている隙にアンドレが逆襲。ヘッドバッドを加え、フロントネック・チャンスリードロップを仕掛けて逆にホーガンからピンフォールを奪い(因みに単に身体を覆い被せるだけの体固めでフォールを奪うのが大抵だが、この時のアンドレは本気でガッチリと体固めを仕掛け、ホーガンからフォールを奪いにかかっていた)、晴れてWWF世界ヘビー級王座に輝いた(但し、直後にデビアスにベルトを売却しており、防衛戦を一度も行う事無くベルトを剥奪されている。またデビアスの方も正式にはWWF⇒WWE世界ヘビー級王座には輝いてはいないものの、当時「IRS」と名乗っていたマイク・ロトンドとの『マネー・インコーポレーテッド』コンビでWWE世界タッグ王座に3度輝いている)。尚、以降もホーガンとはスチールケージマッチで対戦したり、デビアスと前述の「メガ・バックス」コンビでホーガンとランディ・サベージがコンビを組んだ「メガ・パワーズ」のタッグ戦でも干戈を交えている。


しかし、この頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。体調不良のため1990年にWWFを退団。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍。またその全日本では前述の田園コロシアムでの一戦等を交えたスタン・ハンセンと、国際プロレス以来の親友だったマイティ井上との再会を果たし、共に喜びを分かち合った。


1990年と1991年に世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場と共に出場し、1990年はトップを走っていたもののドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの兄弟コンビ「ザ・ファンクス」との一戦の際に馬場が場外に転落した際、左大腿骨を亀裂骨折した為にリタイヤ、3位に終わったものの1991年には準優勝を果たしている。しかしコンディションが更に悪化した為、1992年からは馬場や木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との明るく楽しいプロレスが中心となった。しかし、10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvsジャンボ鶴田&アンドレ&テリー・ゴディ戦)では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせる等、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。


父親の葬儀へ出席するために帰国していた1993年1月27日、急性心不全(鬱血性心不全)の為にパリのホテルの自室で死去(享年46歳)。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)と、後年に殆どトレーニングしなかった事が原因と言われている(因みに酒の場合は好んで飲んでいた他、前述の体重増加による膝と腰の痛みを紛らわせる為でもあったという)。無論、巨体ゆえの心臓への長年の負担も、命を縮める一因となったのは間違いない。


遺体はアンドレ自身の遺言に従い、荼毘に付された。埋葬が一般的な欧米人としては珍しい例であった。弁護士に渡した遺書には「死後48時間以内の火葬」が指示されていたが、パリにはアンドレの巨体を荼毘に付せる設備がなく、やむなくそのままアメリカに移送された(因みに荼毘に付された後、アンドレの遺骨は普通の骨壺には収まり切れず、大型の段ボール箱で漸く収まったと言われている)。またアンドレの遺灰は、彼が晩年プライベートで多くの動物達と過ごす為に買い取った、ノースカロライナ州エラーブにある広大な牧場に散布された。


後に生前の功績を称え、WWE殿堂入りの第一号レスラーとなった。


ファイナルファイトシリーズの敵キャラのアンドレ(後のヒューゴー)のモデルでもある。


ひとり関連項目大移動

動画


関連タグ

人間山脈 巨人 大巨人 巨魁

ビッグ・ショー ケビン・ナッシュ アンダーテイカー(WWE) ケイン 諸星きらり

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました