徳川将軍家の八代将軍。御三家紀伊徳川家の出身。江戸幕府中興の祖とも言われ、名君と称えられる。徳川将軍家十五代の中で丁度ド真ん中に位置する将軍である。
経歴
元々は紀州徳川家の四男であったが、兄たちに子供がおらず紀州家を継承する。一方で徳川宗家においても、家綱・綱吉が共に跡継ぎを儲けられず、この時点で家光唯一な男系子孫である徳川綱豊の系統も7代将軍家継が夭折したこととその叔父・松平清武が高齢かつこれもまた跡継ぎがいないことで、将軍後継者がいなくなってしまった。
宗家に跡継ぎがいない場合に対して、御三家から後継を選ぶこととなっていたため、江戸幕府始まって以来の御三家出身将軍として擁立。この時御三家筆頭の尾張家との間で政争があったものの、大奥らの支持を経て将軍の座を勝ち取った。
吉宗以降、紀州徳川家の血統は幕末近くまで将軍家の主流として栄えた。
享保の改革
将軍として危機に瀕した幕府財政を稀代のケチで知られる初代将軍徳川家康を見習った質素倹約で立直し、大岡忠相を起用した社会政策、飢饉対策など多くの課題に取り組み成功させた。
この頃には農業の発展により米の流通量が十分に増えており、その値崩れも著しかったため、吉宗はそれまでの米作偏重を改めて菜種、綿花、藍、養蚕、サツマイモ、サトウキビなど飢饉対策作物や商品作物の生産を奨励。これは現金収入が得られる農民たちはもちろん、米価低迷に喘ぐ武士たちからも大いに歓迎された。というのは、武士は給料を米でもらうので、米価下落は実質的に賃下げと同じことになってしまうからである。江戸の美化・緑化や行楽地の整備に意を払い、殺風景だった江戸の町を緑したたる美しい街に変えたのも吉宗の功績である。
また、財政改革の一環として増税を断行しているが、 同時に貨幣改鋳による金融緩和政策をとったので反発を抑えることができた。この改革は幕府財政の安定化には大いに役立ったが、幕藩体制の根幹である米本位の経済体制からはついに脱却できず、治世の後期まで米価対策に悩み続けた吉宗は「米公方」とあだ名されるようになってしまった。
...というわけで、「幕府財政の立て直し」には間違いなく有能な人物だったが、日本全体の経済に視点をやると一概にプラスの評価ばかりを下していいものか疑問視する声もある。また、なまじ彼が成功したがために享保の改革が「唯一無二のご政道」として後世でも絶対視されてしまい、貨幣経済への切り替えが遅れてしまった側面もある。後の寛政の改革・天保の改革は基本的には享保の改革の焼き直しである。重商主義を唱えた田沼意次すら、「倹約」と「殖産興業」の2本柱で財政立て直しを狙うという基本線は吉宗と何ら変わらないものだった。
余談
- 十五代将軍の中でぶっちぎりの最長身であり、当時の平均身長が160代前半だったのに六尺(180㎝)近い堂々たる体躯を持っていたらしく(さすがに「ここまで長身ではなかった」という説もある)、常日頃から武芸をたしなんでいたことから怪力を持ち相撲が得意だった。
- 『暴れん坊将軍』の影響で「徳川吉宗役=松平健」と刷り込まれている人も非常に多く、外国人ですら松平を「syougunyoshimune」と認識している。第1シリーズ『吉宗評判記』では、殺陣で刀を一切使わず相撲で敵を殲滅する回が存在する。
- 一方で『大岡越前』での山口崇演じる奔放すぎる人物像が焼きついている人も相当数いるようである(人によってはこの両方を繋げてネタにするとか…)。
- 大奥改革の際に「要望の優れる者は嫁の貰い手があるから」と首にして4割まで減らした話は有名であるが、別にブス専というわけではない。
- 好奇心が強く、洋書の禁を緩めたことで蘭学の発展をもたらした。また、即位中に象の夫婦をベトナムから連れてきた。
- 近松門左衛門の影響で心中が流行った際には、心中した死体をあえて晒し物にしたことで知られる。
- 童謡「鞠と殿様」の「紀州の殿様、お国入り」とは吉宗の藩主就任を表している。