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滝川一益の編集履歴

2012-01-18 04:20:17 バージョン

滝川一益

たきがわかずます

室町時代末から安土桃山時代に織田家で活躍した武将。

生年……大永五年(西暦1525年)

没年……天正十四年九月九日(西暦1586年10月21日)


 名の読みは「いちます」ともいわれており当時、何と呼ばわっていたかは「かずます」とで二分されるが、実際の所は不明(余談ではあるが大河ドラマになった「江」も「ごう」と呼ばれていたのが判ったのは西暦2000年を越えてからであり、実際の読みが判らないというのは全く珍しくない。史料発掘が待たれる所である)。

 戦の駆け引きに優れ、戦場で不得手を持たぬ事から「退くも滝川、進むも滝川」と称された。実際、本能寺の変までに勃発した主な戦場にはほぼ余すことなく参戦していおり、同じく織田信長の元で実力を発揮した柴田勝家(西暦1583年没)、丹羽長秀(西暦1585年没)、明智光秀(西暦1582年没)の三人と並んで「織田四天王」の一人に挙げられる。


初期織田政権に於ける滝川一益

 近江の生まれとされ、父・滝川資清が甲賀の出身であった事から元は六角家の家臣だったと言われるが、父は滝川一勝とも、そもそも両者は同一人物という説もあり、生まれについては全く定説を見ない。後年、九鬼嘉隆信長に紹介するにあたって仲介役を務めた事や、伊勢国の統治が上手かった事から伊勢国の出とも志摩国の出とも云われる。よって信長に仕官した時期も不明だが、早くから鉄砲の腕前を買われて出仕していた模様で、こういった点では足利義昭と共に下向してきた明智光秀と共通する。信長公記には弘治二年(西暦1556年)にその名が見られ、桶狭間の戦い戦後、徳川家康(当時は松平元康)との同盟交渉(清洲同盟)で窓口を務めている。

 足利義昭を奉戴しての上洛などが行われた織田政権初期時には、美濃と隣接する桑名を初め主に伊勢国志摩国の平定や支配、有力勢力の調略を担当した。

 伊勢国国主、北畠具教を主とした北畠氏(織田信雄が養子に入った後、北畠具教は殺害される)や長野氏、神戸氏(神戸氏には三男信孝が養子に入っている)といった土豪の攻略、調略で伊勢、志摩共に安定を見せていたが、本願寺の決起(石山合戦)と同時に長島一向一揆が勃発し、小木江城にて信長の弟、織田信興が自害に追いこまれ、一益自身も桑名城に籠城して辛うじて持ち堪えている。その後は北伊勢で一揆勢と争いながら、同時に朝倉攻めや家康の後詰め(三方ヶ原の戦いでは後詰めとして、長篠の戦いでは主力として)などで各地を転戦し、九鬼嘉隆と共に度々水軍も率いて対本願寺戦線、対毛利戦線にも功績を残す八面六臂の活躍を見せている。

 領土としてはやはり後述の上野一国が有名であるが、それ以前では長島一向一揆鎮圧後に伊勢国五郡を与えられている。基本的には近畿、畿内方面の遊軍であった西の明智光秀(近江坂本城主)に対して東海、甲信と東の遊軍として活躍していたのが初期信長政権での滝川一益である。


後期織田政権から豊臣政権に於ける滝川一益

 視点をそれ以降の伊勢から畿内、中国地方に移した場合(特に対本願寺、対毛利)、石山攻めを武力攻略から包囲による兵糧攻めへと戦略を転換させた後、本願寺と毛利家に通じて織田家から離反した荒木村重の有岡城(伊丹城)を調略によって崩壊させ、また第二次木津川河口戦紀州征伐(西暦1577年)、越前一向一揆征伐にも参戦して、本願寺への兵站線切断に大役を買う。本願寺の降伏後(石山合戦終戦後)は関東との取り次ぎ役に就任。対本願寺戦線の司令官であった佐久間信盛が追放されたこともあり、関東の諸大名との取り次ぎを一手に担った。

 武田征伐に際しては大将である織田信忠の軍監として実質上の最高指揮官を務め、武田勝頼が天目山で自害して以降、領土として上野一国と信濃の二郡(佐久郡・小県郡)を与えられ、此処で関東管領に等しい権限が認められて後、関東鎮定を担当する。政務、調略の手は関東のみならず奥羽の伊達、蘆名といった東北の勢力にまで及んでいたが、しかし本能寺の変織田信長が横死すると、上野国人衆の掌握が盤石でない状態で北条氏に進攻され、衆寡適せず惨敗し本拠地の伊勢に退去する(神流川の戦い)。上記の敗戦に加え、関東から退去している最中に清洲会議が行われ一益不在で織田家の後継者が決定されてしまいその結果、織田家での影響力は一気に低下してしまった(織田家後継者は信忠の子で豊臣秀吉が推す三法師丸、後の織田秀信に決定)。

 羽柴秀吉柴田勝家の争い(賤ヶ岳の戦い)では勝家陣営に付くが勝家が北ノ庄城で自害して後に降伏しその結果、所領を没収され自身は剃髪し丹羽長秀を頼って越前国に隠居、大名の座からも追われる結果となる。が、秀吉の権力拡大を快く思わなかった織田信雄(但し信雄自身は賤ヶ岳の戦いで秀吉陣営に与している)と、其処に与した徳川家康羽柴秀吉に反旗を翻した際(小牧・長久手の戦い)、一益は秀吉に隠居先から招集されて秀吉陣営に参戦。旧領の蟹江城を落とすがその後、家康と信雄に包囲されて降伏し、最終的には秀吉に参戦の約定としての三千石を与えられ、秀吉の北条征伐にも外交で関与しながら余生を過ごした。享年六二歳。官位は従五位下。長篠合戦直後には朝廷から伊予守を授かっている。


その他

・織田信長から前述の上野一国と信濃二郡を与えられた際、一益は領土よりも茶器で「安土名物」と呼ばれた「珠光小茄子」を与えられなかった事について大変悔しがったと言われている(齢五十も半ばに差し掛かかり無理からん事だが、この逸話が真実であった場合、赴任先で没落している事を鑑みて「最後の退き口」の判断も誠に正しかったといえよう)。

織田四天王の一人ということもあり、何かしらの作品に登場する際には概ね有能な人物として描かれる。

・関東在任期間中、上野や信濃の国人衆には上々な評価を受け、信濃で有名な真田昌幸真田信繁真田幸村)とも旧知の間柄となった。

・一介の地侍という出自から考えれば、織田家ではかなり出世した人物ともいえる。実際に転戦に次ぐ転戦で各地にて戦果を上げていたのだが、信長本人の「主戦場」と云える位置からは若干外れて(場所的に、或いはタイミング的に)活躍していたこともあり、人によっては丹羽長秀よりも地味な扱いを受ける事もある。

・織田家重臣に多い『晩年は不遇』な人物の一人で、大徳寺の信長の法要に出かけた際は「滝川殿の席はありませぬ」と、秀吉にすげなく追い返されている。


戦国大戦において

落書き

(CV:小野大輔


織田家の武将として参戦。レアリティは最上位のSR。コスト2.5の武力8、統率6と安定したスペックを持つ。甲賀出身という事から忍者説が存在し、戦国大戦でも採用されて特技・忍を持つ(因みに忍持ちの武将の中では統率6は最高値である)。


この特技の為、戦場でも相手に位置を把握されず行動し易い。


計略「撹乱貫通射撃」は自身の射撃に命中時に相手の統率力を下げ、貫通させる特殊な効果を得るもの。

これ自体で即座に勝負が決まる事は少ないが、上述の特技と合わせ、相手からすればいきなり厄介な射撃を試合中に何度も受ける事になる。また統率を下げる事も利用して、敵部隊を大筒や虎口に近づけない様にしたり、相手の強化計略の時間を短縮させたり、もしくは味方のダメージ・妨害計略のアシストとして使うのも手である。


彼を活かせるかどうかはその奇襲効果次第となる。


pixiv内でのイラストの大半は『戦国大戦』関連である。


因みにSS(戦国数寄)カードでも「スプリガン」が代表作である漫画家・皆川亮二氏がイラストを手掛けたものがあり、そちらはコスト2の武力7、統率6とSRと比べるとやや落ち着いた感じであるが、特技はSRと違って一切持っていないのが残念な所。


所持計略は「貫通一斉射撃」という、名前の通り部隊を貫通させて複数の部隊に当てる事が出来るうえ、通常の倍である10発の弾丸を放つ事が可能である代物。

武力上昇は無く、SR同様にこれ1枚でどうにかなるものではないが、貫通効果を巧みに利用すれば陣形計略もしくは舞踊計略を持つ要人を撃破する事が可能であり、また味方の強化陣形や強化采配と組み合わせればかなりの威力を発揮する事が出来る代物である。

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