概要
8つの数字によって区分分けされていたレースカテゴリを簡略化するために、FISA(国際自動車スポーツ連盟)が1981年に発布し1982年に導入された「グループ・アルファベット」カテゴリの内の一つである。直接の前身は「グループ6」である。
車両カテゴリは「スポーツプロトタイプ」と呼ばれる。強大なパワーを発揮する車両が多いため「モンスターマシン」と称されるが、その反面長距離耐久レースを戦うために各種快適装備が備えられた、まさに「スポーツカーの究極体」である。
このカテゴリが人気を集めた理由は、レギュレーションに「使用可能燃料量」が指定されていることである。最初は1981年ル・マン24時間を制したポルシェ・936/81の燃費1.8km/Lが基準となった。
「オイルショック」に起因する、石油資源への向き合い方として定められたこのレギュレーションは、当時はもちろん、今日におけるレースシーンにおいても、ドライビングマネジメントの観点において極めて優秀な規定といえる。
ただし1990年の規則改定で使用可能燃料量が撤廃され、燃料が使い放題になるという真逆の改定がされた結果メーカーの撤退が相次ぎ、1993年に廃止されてしまった。
利用可能燃料量
グループCには2つのタイプが存在する。
ひとつはトップクラスの「C1」。もうひとつは一回り小さい車体(90年代以降は旧グループC1規定車両)の「C2」に分けられる。本記事ではもっぱらC1について記述する。
以下の数値はC1カテゴリのものであり、カッコ内は85年からの数値である。
500km | 〜323L(275L) |
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500mile(805km) | 〜494L(420L) |
1,000km | 〜600L(510L) |
24時間レース | 〜2,550L |
グループCの主なレギュレーション
全長 | 4,800mm以下 |
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全幅 | 2,000mm以下 |
最大高 | 1,000〜1,100mm |
最低重量 | 800kg以上 |
ドア数 | 2枚 |
その他、コクピット底面に1,000mm×800mmのフラットボトムを設置する、フロントとリアのオーバーハングの合計がホイールベースの80%、差が15%を超えてはならないなどがある。
先述の「燃費」と寸法、ドライバーの安全と快適性などに規定がある以外は「あとは自由」とも言える非常に柔軟なレギュレーションであった。
ロータリーエンジンが積極的に活動できたのも、この柔軟さに一端している。
主なレース
・ル・マン24時間耐久レース
・世界耐久選手権(WEC)→世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WSPC)
→世界スポーツカー選手権(WSC)
・全日本耐久選手権→全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)
・デイトナ24時間耐久レース
歴史
1970年代に発生したオイルショックの中で、レースにおける「燃料」は格好の批判の的となった。この世界情勢を受け、レギュレーションに「燃費」を盛り込むことでメーカーがレースを行う土台を整えていく。
1982年にFISAによって規定が定められ、グループCは一歩を踏み出した。
発足してからすぐにポルシェ・956、そしてその後の進化版の962CもグループCのレースシーンにおいて無敵とも言える強さを見せる。
世界耐久選手権(WEC)では82年から86年、ル・マン24時間レースにおいては82年から85年、全日本耐久選手権(後のJSPC)においては83年から89年と、数多くのチャンピオンを獲得した。またグループCと互換性を持つ北米耐久のIMSA-GTP規定でも活躍し、1980年代前半を支配し続けた。
ポルシェは他メーカー勢とは異なり、ワークスチームよりも多数の有力プライベーターに供給し運用させることで、多くの勝利を掴んでいた。当時ポルシェはF1でもエンジン供給を行ってチャンピオンを獲得しており、まさにポルシェの時代であった。
ランチア、ジャガー、ザウバー/メルセデス、トヨタ、マツダ、日産といった各メーカーが「打倒ポルシェ」を掲げて多数のモンスターマシンを繰り出して鎬を削ることとなるが、実際にポルシェに勝てるようになるのは、80年代末期のTWR/ジャガー・XJR-9や日産・GTP-XTを待たねばならなかった。
1988年にポルシェはCART(現インディカー)にもエンジン供給を始めるが、この頃になると962Cは相対的に戦闘力を失っていった。
移行期間と消滅
燃料流量規制ゆえに熱を帯びていたグループCだが、1988年頃から燃費を気にしながらレースをするのは興行的につまらない、という声も出始めていた。折しも当時大衆人気を獲得していたF1に力を入れたいと考えていたFISAは、1989年にF1と同じ燃料使い放題・ターボ禁止・最大排気量3.0L、スプリントレースの導入という規則の導入を発表した。これにはグループCのメーカーがF1にもエンジン供給をするようにするという目論見もあった。
しかしこの規則はこれまで参戦していたメーカーにとっては、長年積み重ねてきた低燃費エンジンへの知見を強制的にリセットさせられてしまうものであったため、開発が遅れて参戦できない、あるいは開発コストが追いつかなくてそもそも参戦を諦めてしまうメーカーが多数発生した。特に手厚いサポートでプライベーターの味方であったポルシェが、おりからの戦闘力低下に加えて「旧規定だから」という理由で大きなハンデを背負わされていたことは、エントリー台数に大きな打撃を与えた。
こうした事態に直面したFISAはしぶしぶ旧規定マシンの参戦をいったん1991年まで認めた。この混乱の最中、91年のル・マンを日本車として初めて制覇したオレカ/マツダの787Bの総合優勝は今も語り継がれる快挙となっている。
結局、新規則に本腰を入れて参戦できたのはプジョーとトヨタだけであった。
そんな状態なので、新GT1規定までの繋ぎの94年まで新旧グループC規定車両の適用がダラダラと続くことになる。
こうして世界のレースシーンを一気に進化させた熱狂の時代は13年という短い期間で、最後は寂しい幕引きとなった。
日本メーカーにとっての「グループC」
1982年WECジャパンでロスマンズ・ポルシェの956がもたらしたグループCの衝撃は瞬く間に国内メーカーを奮い立たせることになる。この年「正式な国産グループCカー」は「トヨタ・童夢セリカターボ」のみであった。
全日本耐久選手権(1986年にJSPC、全日本スポーツプロト選手権へ改称)が誕生した83年からは多くのワークス・プライベーターがグループCへ出走することとなるが、時を同じくして日本で隆盛を迎えていた「富士グランチャンピオンレース(通称グラチャン・GC)」のマシンを流用するチームも多くいた。しかし本命はやはり956であった。
当時の956の価格は6,500万円ほどとされるが、マシン開発に四苦八苦するワークスをよそ目に、強力な戦闘力を持ってプライベーターがレースを行っていた。こうしたプライベーターの中で最初にポルシェを持ち込んだのが「ノバ・エンジニアリング」である。彼らは1983年にワークス・ポルシェが来日したレース以外は全勝という圧倒的な強さを見せつけた。
トヨタ・日産・マツダは「打倒ポルシェ」と「ル・マン優勝」を目標に、マシン開発をすすめ猛烈な進化を見せていき、84年になると(全日本選手権ではないが)富士1000kmレースで、ムーンクラフトのMCS・グッピーが国産マシンとして初勝利。
翌85年には童夢84C・トヨタが初めて全日本耐久選手権で優勝し、同年9月にはWEC富士で星野一義率いるマーチ85G・日産が国際ラウンドで日本勢として初優勝を上げている。
しかしシーズンを通してでは、やはり956が総合勝利を重ねていた。
結局ポルシェが衰退する1989年まで、国内で行われたグループCのレースにおいて国内メーカーが年間チャンピオンとなることはなかった。
1990年に入るとかつてのポルシェの面影はなく、この年日産・R90CPがようやくタイトルを掴んだ。ここまで来ると各メーカーはすでに(衰退したとはいえ)「打倒ポルシェ」を大きく達成しており、グループCも最盛期を迎えていた。
1991年には先述の通りマツダ・787Bがル・マン24時間レース総合優勝を果たし、20年の挑戦の悲願を達成する。国産車がル・マンで優勝したという事実はモータースポーツの歴史にその名を残し、また孤高のロータリーエンジンの快挙は世界を沸かせた。
また日産は旧規定車両をIMSA-GTPに適合させた「R91CP」によって92年のデイトナ24時間を実質日本人トリオで制覇するという、こちらも快挙を達成した。
しかし新規則下では、マツダは大排気量レーシングピストンエンジンのノウハウの蓄積が無かったため、ジャッド製V10エンジンと旧グループCのジャガー製シャシーをTWRから購入して対応せざるを得なかった。92年を持ってバブル崩壊の余波を受け止めきれなかった本社の経営不振により、この分野から撤退し、以降マツダはル・マンに戻ることはなかった。
日産もV10エンジンを搭載したNP35を開発するが、JSPCに一度参戦した後は経営不振により参戦を断念した。
トムス/トヨタはTS010を開発しプジョーと大舞台で競り合い、1991年SWC(スポーツカー世界選手権)モンツァ戦で日本のマニュファクチャラーとして初めてこの分野の世界選手権で優勝を飾るが、これ以外は大きな戦果を挙げることはできなかった。
SARD/トヨタはこうした中でも積極的に旧規定マシンで参戦し、94年には「94C-V」で総合2位(LMP1/C90クラス1位)を獲得している。この94C-Vは優勝できなかったにも関わらず、トラブルからの鬼神の如き追い上げが現地でも大きな印象を与えたとして、今もル・マンの博物館に787BやTS050とともに並んでいる。
92年末にはバブル崩壊も直撃して参戦台数が10台前後に低迷したJSPCは消滅し、国内メーカーもグループC活動に終止符を打った。
その後
チーム・タイサンの962Cが1994年のJGTC(現在のSUPER_GT)にも参戦している。アンソニー・レイド/近藤真彦組がGT1クラスで優勝を挙げているが、規則で多くのハンデを背負っていたため、この年限りの参戦となった。
NISMOやTRD、マツダスピード、トムス、SARD、タイサンと言った有名チューナー・プライベーターはこのグループCの渦の中で産声を上げ、実戦を戦いぬき、その後のレース活動の地盤を作り上げた。
参考・出展
・WikipediaグループC
・三栄書房 Racing on Archives Vol.8「ニッポンのグループC」(2014/2/12発行)
ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトルにおいて
2013年6月19日、ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトル(以下ASB)公式サイトにおける企画、
「オールスターバトルリーグ」内にて3番目に誕生したグループである。
しかし、その後誕生した通称アイドルグループグループDと通称死のグループグループFのインパクトの影に隠れてしまった。
構成メンバー
4部ダイヤモンドは砕けないの人気漫画家
1部ファントムブラッドで主人公のジョナサンに波紋法を教えた。
4部ダイヤモンドは砕けないのラスボス。唯一のダウンロードキャラクター。