曖昧さ回避
- 競走馬。当記事で解説。
- 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘。→ハルウララ(ウマ娘)
- Fate/GrandOrderに登場する概念礼装。→春うらら
- 遊戯王OCGカードの一枚。→灰流うらら
もしかして:春麗(チュンリー)
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概要
1998年11月17日、高知競馬場でデビューした。
概要の通り負け続けたことで有名だが、それ以上に現役時代において113戦も勝負を重ねたことの方が特筆に値する。
2003年12月14日「ネバーギブアップ・ハルウララ100戦記念特別」1番人気、9着。
2004年3月22日、武豊騎手が騎乗。1番人気、10着。
2004年8月3日、113戦目。3番人気、5着。
以後、馬主と調教師の間で意見が対立し、レースに出走しない状態が続き、最終的には競走馬の登録を抹消された。
引退後は栃木や北海道の牧場を転々とし、2012年に現在飼育されている千葉県のマーサ・ファームに預託される。
その後預託金がストップして殺処分の危機に陥るも、現馬主が設立した春うららの会という組織によって支援され、静かな余生を送っている。
特徴
連敗数をネタにされて取り上げられることとなった馬であり、競馬関係者からはかなり複雑な目で見られていた。
特筆すべきはむしろ出走数であり年間20レース、生涯で113回走って致命的な故障を起こさなかったというのだからその丈夫さの方にむしろ注目すべきであろう。だがこれですら記録となるレベルではなかったりする。
この出走数のカラクリは、一回走ると手当てが付くためで、年々減らされはしたがこの制度によってハルウララは勝てずとも堅実に金を稼いでいた。これが廃馬(肉屋行き)にならなかった理由でもあった。
ちなみに負けばかりと言われているが、掲示板に乗った経験なら何度かあり、惜しくも2着といった競馬も見せている。
しかしハルウララの連敗数が話題になるとマスコミが殺到。勝てない馬などさして珍しくもないが、やたらと騒ぎ立てられてハルウララブームが巻き起こる。負けた馬を持て囃すなど競馬に詳しい人間目線ではただの冒涜でしかなく、関係者からの目は冷ややかだった。
廃馬になった馬は馬肉として出荷されるだけである。なんて身勝手なと思うかもしれないが、馬は風雨に晒しても生きていけるような生き物ではない。飼育費用は馬鹿にならないし、結局駄馬と見限られれば食卓に並んでせめて人の生きる糧になるしかないのである。
どれだけ功績を上げた馬であろうが最悪出荷されることすらあるのが競走馬。そんな儚い世界において、それを面白がって持て囃すなど、本来ならあってはならないことなのである。
競馬の関係者は勿論自身の馬にそんな末路は送らせまいと必死になり、日々少しでも勝ち鞍に近づけるよう努力している。ハルウララブームはいわば、そんな関係者の努力を嘲笑うかのようなものであった。熱心な競馬ファンがハルウララ目当てでやって来た客を見て「動物園」と揶揄することもあったという。
確かにハルウララブームは作られたブームだったのかも知れない。
しかし、負けても負けても懸命に走るハルウララに心打たれる人々も多かった。
当時の日本は終わりの見えない不況の最中で、明日に希望を見出して一生懸命に生きる人々はそんなハルウララに自らを重ね、応援したのだろう。
このおかげで廃止寸前だった高知競馬場に活気が戻り、現在でも運営が継続されるキッカケを作った。お世辞でも誇張でもなく言葉通りの意味で、ハルウララは『高知競馬場の救世主』である。
また、このブームによって競走馬で数字(視聴率)が取れることをメディアに知らしめた事は、すぐ後に登場した歴史に名を刻む名馬ディープインパクトを国民的ヒーローにまで躍進させる土台となったという意見もある。ハルウララブームの後は情報バラエティ番組で競馬を取り扱うことが格段に増え、ディープインパクトが躍進してくると次世代のスターが登場したと言わんばかりに連日連夜特集するような状態になった。
あの大谷翔平が浦河町応援大使として戦後初のクラシック3冠馬となったシンザンの銅像前でインタビューを受けたときも「あまり競走馬に詳しくはないが、ディープインパクト、キズナ、ハルウララ、サトノノブレスは知っている」と名馬と並んで名を挙げたり、競走馬擬人化作品『ウマ娘プリティーダービー』が競馬業界の枠を越えた社会現象になると、「ウマ娘以前はディープインパクトとハルウララぐらいしか競走馬を知らなかった」という声はよく聞かれた。知名度だけなら2000年代を代表する競走馬と言って差し支えないだろう。
その頑丈さゆえに繁殖も考えられたが馬体の小ささ(母も小さかったが血統の良さから繁殖入りした)が危険と判断され実行はされなかった。
どの生物も出産は命懸けだが特に馬は出産後や妊娠中にしぬ場合があり、エアグルーヴやスイープトウショウなどウララより大きい牝馬が死亡しているのも出産の過酷さを物語っている。
血統はビューチフルドリーマーと言われる戦前からある名血統で遠縁には上述の大谷投手がインタビューした銅像のモデル・シンザンがいる。
引退後、老齢になってからソフト競馬においてついに初勝利を収めている。これ自体が朗報であるが、何より老齢になってもこうした競技に参加できる辺り、その丈夫さ・頑健さは本物であった。
現在引き取られたマーサファームに来た当初は怖がりで気が小さく、その上偉そうにしていた扱いの難しい馬だったそうだが徐々に心を開いていき、現在は「うーちゃん」の愛称で呼ばれながら同ファーム内で出来た友達や見学に来たお客さん達と仲良く遊んでいるとのこと。
全盛期のハルウララ狂騒曲
レースの逸話は少ないが、ハルウララブームそのものにはいくつものエピソードが残されており、当時のブームがいかに人々から注目されていたかが窺い知れる。高知競馬場を廃止の危機から救ったことと合わせて、単なる『ブーム』では片付けきれないほど、多くの人々に希望を与え、命や暮らしを救ったのだ。ハルウララはその名の通り、『人々の心に春のような麗らかさをもたらした』のである。
- それまで男性の多かった競馬場に女性も多数やってくるようになる。夫婦や親子で来場する客も増えた。
- 癌にかかり絶望の淵にいた女性がハルウララのレースに勇気づけられ、生きる希望を見出した。
- 自殺まで考えていた人がハルウララのレースを見て踏みとどまった。関連性は不明だが、統計でもハルウララブーム前をピークに自殺者が減少傾向になる。
- 馬場でのハルウララのグッズ販売を騎手たちの夫人まで動員して行っていた。
- 時の総理小泉純一郎首相も強い興味を示しており、予算委員会にて「1回でいいから勝ってほしいなぁ」「負けてもくじけるなという希望を与えてくれるいい話題」と好意的なコメントをしており、武豊騎乗レースの後は「武豊でも勝てなかったか…」と肩を落としていた。
- 国会での競馬法改正を巡る議題で地方競馬を復活させるためのヒントとして名が挙げられている。(※当時の国会での議事録にもあるように、地方競馬だけでなく中央競馬の売り上げも下がり調子で、国民全員に知られるようなスターホースがいないことも問題視されている。ちなみにディープインパクトの登場はこの年の末である。)
- 武豊の騎乗レースではハルウララ専用窓口まで設けられ、待ち時間はなんと7時間。徹夜組まで現れた。
- 当の武豊は当初競馬の本質と離れたこのブームにうんざりしていたが、黒船賞と同日に引退レースを考えていると説明されて騎乗。レースは結局勝てなかったが、大勢の観客による熱い声援に応え、本来勝利馬の特典であるウイニングランまで行った。
- 武豊とハルウララのレースを生中継した関西の情報バラエティ「ちちんぷいぷい」にて瞬間19.9%、平均12.2%で番組の最高視聴率記録を更新した。
- 歌が作られる。
- 等身大像も作られた。2007年に寄贈、地元の工業科の生徒によって専用の馬小屋も立てられ、現在も旧・高知競馬場跡に建設されたテーマパーク「わんぱーくこうち」に飾られている。
- 笑点で何度か題材に使われる。圓楽(馬主役)「また負けたのか!」歌丸(馬役)「あんたと馬が合わねーんだよ!」/楽太郎(馬役)「じゃあ、(顔が馬に似てる)あんたが走ればいいじゃん」他の回答はこちら
関連項目
ハローキティ…キティちゃんのアップリケでメンコの継ぎ目を隠していた。公式のコラボグッズも存在する。
春麗…中国では某格ゲーの人気キャラと同じ表記になる。ちなみに父の敵と同じ名前の競走馬もいる。
無事之名馬…日本に伝わる格言のひとつ。能力が多少劣っていても、怪我・病気・故障もなく無事に働く人間は優等生であるとする考え方を表した格言である。
ジッピーチッピー…対サラブレッド戦100戦100敗の記録を持つアメリカ版ハルウララ。非公式のマッチレースでは勝利を収めている。(ただし対戦相手はクォーターホースと人間)
ダンスセイバー…通算229戦0勝という連敗記録を継続しているホッカイドウ競馬所属の現役牝馬。
ラガービッグワン…中央競馬で異例の12連闘をしたことで有名。その年には年間30戦出走という記録も残しており、この二つの記録は未だに破られていない。
たいようのマキバオー…ハルウララがモデルとされている。