概説
生没:永禄2年(1559年)~天正7年(1579年)
幼名は竹千代。通称は三郎、岡崎三郎。
松平家が今川家の傘下にいた時期に駿府で生まれたが、人質交換で岡崎へ移った。織田信長の娘の徳姫と結婚し、元服時に信長から諱の一字を貰う。
家康が浜松に移ってから岡崎城を任せられ、武田信玄・武田勝頼父子との戦いなどで多くの功績を上げる。
しかし、家康との間に何らかの問題(性格的な問題らしい)があり、1579年に信康は岡崎城を追放され遠江・二俣城に謹慎させられる。その後、家康は信康の処分について信康の舅である信長に相談し、「思い通りにせよ」と言質を得たうえで、築山殿を殺害し、信康を自害させた。享年21歳。介錯を行ったのは、服部正成か天方道綱とされる。
長女は小笠原秀政(小笠原貞慶の長男)、次女は本多忠政(本多忠勝の長男)にそれぞれ嫁ぎ、両者とも多くの子宝に恵まれた。信康の孫や曾孫の世代での近親結婚も多く、元総理大臣の細川護煕は岡山池田家出身の父方祖母から信康の娘二人の血を受け継いでいる。
徳姫は娘達を家康のもとに残し、兄の織田信忠に引き取られ、晩年には義弟の松平忠吉から所領を与えられた。
人物像
信康は、死後に父・家康が嘆くほど有能な武将だったようで、特に武人としての器量は兄弟の中で最も優れていたとされる。
また、異母弟・於義丸(後の結城秀康)が自分の子であることに疑いをもっていた父・家康に於義丸を会わせ、渋る家康に認知をするよう迫った逸話が残されている。
ただし、年が近い大久保彦左衛門(忠教)の三河物語によると「これほどの殿はいない」と言わしめている反面、戦・乗馬・鷹狩りにばかり関心が強かったというので、武以外の才能は乏しかった疑いがあり、次弟の徳川秀忠とは完全に真逆なタイプだった可能性もある。
また、信康の器量が嫡男の織田信忠に勝っていることを恐れた信長が信康の処断を家康に迫ったという俗説もあるが、政略などを加味すれば現在では信忠の方が信康より総合的には器量が上とされている。
また近年では
- 信康の死の前後に岡崎城に配属されていた家臣の多くが大小の罰を受けていること
- 岡崎城の家臣団と浜松城の家臣団の深刻な対立があり、仮に信康が望まなかったとしても担ぎ上げられる可能性があったこと
などもあり徳川家が割れる前に家康があえて処断したという説がある。
性格は、弟達の中でも家康に特に嫌われた松平忠輝に似ていたらしい。
いずれにせよ、問題は少なからずあるにせよ期待を置いていた長男を実の父親が殺害せねばならないという、当時としても過酷な行動であったため、簡単に割り切れるような一面的な見方はするべきではない。
ドラマなどでの演者
家康と瀬名御前の嫡男として幼年期から登場。視点が直政に移り変わってからは遠縁であることも手伝って、直政が浜松と岡崎の使いに立つこととなる。
聡明かつ有能で視野も広く、前線で功績を立てる浜松に対して冷遇されがちな岡崎側の弁護をしつつ、同時に父の立場もよく理解しているため、家康からも「いずれ後を譲ったら直政と良い主従になる」と将来を期待されていたが、信長の好意(という名目の取り込み)を二度断ったがために警戒心を抱かれてしまい・・。
その他創作
太閤立志伝Ⅴ
主人公として選択すると、彼の死因となった一連の事件を追体験可能で
選択肢次第で史実通りの結末の他、結果的に徳川家が織田家に従属する展開や
切腹の寸でで逃亡し「世良田次郎三郎」を名乗って第二の人生を始める展開が用意されている。
信長の忍び
クールな性格の少年。
超が着くほどヤンデレな母・築山殿を厭っており、千鳥が築山殿に襲撃された際には部下を向かわせて拘束させ、「出来ることなら我が一族の恥を見てしまった貴女も口封じのために消したいくらいだ」と呟いていた。