概要
レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ロシア語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев、ウクライナ語:Леонід Ілліч Брежнєв、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年10月から1982年11月まで同国の第4代最高指導者であった。フルシチョフの後任の党書記長(当初は第一書記)となり、1977年6月からは最高会議幹部会議長も兼任した。なお最高指導者の地位にあった期間は、スターリンに次いで長い。ブレジネフの党書記長としての在職期間は、歴史家たちの議論の的となっている。ブレジネフの統治は政治的な安定性と外交上の成功という性格を持つ一方、腐敗・非効率・経済停滞・急速に開いた西側諸国との技術的な格差によって特徴付けられる。
経歴
ブレージネフは、1906年12月19日にロシア帝国イェカチェリノスラーフ県カーメンスコエ(現カーミヤンシケ、ウクライーナ)で、金属細工師であるイリヤー・ヤーコヴレヴィチ・ブレジネーフ(1874年から1934年)とその妻ナターリヤ・ヂェニーソヴナ・マザーロヴァ(1886年から1975年)の間に誕生した。彼の両親は、カーメンスコエへと移る以前には、ブレージネヴォ(クルスク地区、クルスク州、ロシア)という村に暮らしていた。ブレージネフの民族籍はロシア人だが、彼のパスポートも含め(※1、※2、※3)、いくつかの文書では、ウクライナ人と誤記されており、また別の文書ではロシア人と書かれている(※4、※5)。ブレジネフ自身のロシア人であるという声明は、彼の「回顧録」(1979年)の中に見出すことができ、そこで彼はこう書いている。「そして民族籍によれば、私はロシア人であり、私はプロレタリアートであり、代々の冶金学者であった」(※6)。
1917年のロシア革命以後の若者たちの多くと同様、彼は技術的な教育を受け、まず土地の経営、そしてその後に冶金学を学んだ。1923年に共産党青年組織のコムソモールに加入し、党それ自体には1929年に参加した(※5)。1935年から1936年、義務的な軍務期間を終了した。戦車学校における講習を受けたのち、彼は戦車工場のコミッサールとなった。ブレージネフはカーメンスコエ冶金技術テフニクム(技術大学)を1935年に卒業し(※7)、ウクライーナ東部の製鉄・製鋼工場で冶金技術者となった。
スターリンの大テロルの最中に、ブレージネフは、平の体制メンバーを昇進させることになる、〔テロの〕結果として政府と党内に生じた空白から利益を得た大勢のアパラーチクの一人となった(※5)。1936年、ブレージネフはドニエプロジェルジーンスク冶金技術テフニクム(技術大学)の校長となり、ドニエプロペトローフスクの中心へと移った。1937年5月、彼はカーメンスコエ市ソヴィエトの副議長となった。1938年5月、ニキータ・フルシチョーフがウクライーナ共産党の実権を握ったのち、ブレジネフはドニエプロペトローフスク州の共産党プロパガンダ部局長に、さらに1939年、地区党書記へと任命され(※7)、市の防衛産業の責任者となった。ここで、彼は「ドニエプロペトローフスク・マフィア」として知られる、ブレージネフの権力への上昇を大いに助けることになる、支持者たちのネットワークを築き上げることになった。
1941年6月に独ソ戦が開始され、軍の政治委員として活動した。1943年4月に第18軍の政治部長になり、1946年4月に少将の階級で赤軍を去ってドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰し、第一書記となる。ブレジネフはドニエプロペトロフスク州での人脈を権力強化に利用し、彼らはドニエプロペトロフスク・マフィアと呼ばれた。1952年10月に党中央委員会及び最高会議幹部会のメンバーとなった。
1953年3月にスターリンが死去し、フルシチョフの後援によって軍政治総局長第1代理に任命された。1954年2月にカザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年8月に同党中央委員会第一書記としてカザフスタンの開拓事業を指導した。
1956年2月にモスクワへ戻ってフルシチョフの側近となり、1957年6月にスターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持し、政治局員となる。1960年5月に最高幹部会議議長に就任し、名目上の国家元首になった。この時西側諸国への外遊により、高級車・ブランド品への欲望が高まる。
1964年10月にフルシチョフが失脚した後に党第一書記となり、同国の第4代最高指導者となった。1965年12月にアナスタス・ミコヤンも失脚し、党はブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイのトロイカ体制となる。コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招き、ブレジネフの発言権が増す。1966年4月に「党第一書記」をスターリンの肩書きであった「書記長」に戻した。
1968年1月にチェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェク共産党第一書記による改革(プラハの春)に危機感を持ち、「修正主義」と批判してワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は西側では「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれたが、ソ連に対する期待が失われて国際共産主義運動は分裂した。
1976年5月に軍隊を指揮した経験も無しにソ連邦元帥となる。健康状態が悪化したブレジネフは権力に強く執着するようになって数々の勲章で自らを飾ったが、国民からの尊敬を得られなかった。1977年6月にポドゴルヌイに引退を強要し、ブレジネフが最高会議幹部会議長を兼任した。同年10月に憲法改正(ブレジネフ憲法)を実行する。
1982年11月10日に心臓発作によって75歳で死去し、赤の広場に埋葬される。
※1 ブレージネフの身分証明書。«украинец»(ウクライナ人)と表記されている。
※2 ブレージネフの賞与証書。同じく«украинец»(ウクライナ人)の表記が見える。
※3 1947年時点のブレージネフのパスポート。同上。
※4 1943年時点のブレージネフの賞与証書。«народность»(民族籍)は«русский»(ロシア人)となっている。
※5 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 6.
※6 "ЖИЗНЬ ПО ЗАВОДСКОМУ ГУДКУ". supol.narod.ru (in Russian). Retrieved 12 June 2022.
※7 McCauley, Martin (1997). Who's who in Russia since 1900, Routledge, p. 47.
外交
アメリカ合衆国
1972年5月にアメリカのリチャード・ニクソン大統領との首脳会談で戦略兵器制限条約を締結し、ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を推進した。その一方で1971年12月の第3次印パ戦争、1973年10月の第4次中東戦争、1975年3月のアンゴラ内戦、1977年7月のオガデン戦争など米ソの代理戦争が行われた。
アフガニスタン
1979年12月にアフガニスタンへの軍事侵攻を実行し、アメリカとの緊張緩和は終焉した。これが原因で1980年7月に共産圏で初の開催となったモスクワオリンピックは、同国への軍事侵攻を非難する諸国からボイコットされ、再度開始した軍拡でソ連経済は悪化した。
中華人民共和国
1969年3月にウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突が発生し、ブレジネフの治世では中国との関係は悪化し続けた。
日本
1973年10月に田中角栄首相と会談し、共同声明を発表した。同声明では「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する事が、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記され、ブレジネフは北方4島の問題が戦後の未解決の諸問題の中に含まれる事を口頭で確認した。その他にヤクートの天然ガス・チュメニ油田・サハリン大陸棚の共同開発などの日本との経済協力を打ち出した。
アネクドート
ブレジネフ関係のアネクドートは無数にあり、以下のものなどがある。ちなみにブレジネフが党幹部となった後も、母のナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。
『ブレジネフが誘拐されて誘拐犯から電話があった。「100万ドル払え。さもないとブレジネフを生かして帰す」』
『モスクワオリンピックでブレジネフが演説を始めた。「O! O! O! O! O!」側近が演壇に駆け寄ってささやいた。「レオニード・イリイチ、それはオリンピックの旗です。読む必要はありません」』
『ブレジネフは母親に偉くなったところを見せようとモスクワへ呼んだ。豪華な執務室・幹部用住宅・幹部用別荘などを連れ回すにつれ、母親の顔は暗くなった。「お前が偉くなって嬉しいよ。でも、ボルシェビキの連中に殺されないかね?」』
【参考文献】
レオニード・ブレジネフ(サカルカ)
家族
1927年11月にヴィクトリア・ペトロヴナ・デニソワと結婚し、1929年4月に長女のガリーナ・1933年3月に長男のユーリが誕生した。
関連リンク
※詳しくはwikipedia「レオニード・ブレジネフ」を参照。
その他
個人崇拝
ロシアの歴史家であるロイ・メドヴェーヂェフは、ブレージネフの官僚的な心的傾向と個性こそ、彼に権力を得させることを可能にした力であると強調する。ブレージネフは自分の友人たちに忠実で、儀礼的な権力を無益に渇望し、そして党内における腐敗を抑制することを拒絶した。特に外交政策で、ブレージネフは政治局の同僚たちに何も告げることなく、ますます自分自身で決定を下すようになっていた(※1)。ブレージネフは意図的に、様々な人々に対し様々なペルソナを示すようになり、それは体系的な彼自身のキャリアの美化へと帰結していった。ブレージネフ時代の最晩年は、増大する個人崇拝によって特徴づけられる。ブレージネフのメダルへの愛好(彼は百個以上のメダルを受け取っていた)はよく知られており、1966年12月の60歳の誕生日にブレジネフはソヴェト同盟英雄の称号を受け取っている。ブレジネフはその称号と共にレーニン勲章と金星記章を受け取っており、さらに3度彼の誕生日の祝典にて授与されている。彼の70歳の誕生日には、ブレージネフはソヴェト同盟元帥の位に叙されており、これはソヴェト同盟の最高位の軍事的な栄典である。この階級に叙された後にブレージネフは陸軍の退役軍人たちの第18回大会へと出席し、長いコートで着飾って「気を付け! 元帥がやって来るぞ」と言っていた。
1978年2月にブレジネフは稀少な勝利勲章を自身に授与したが、1989年9月に表彰の基準を満たしていないとして、死後に剥奪された。
ブレージネフの分不相応な栄誉への渇望は、彼の貧弱な回顧録の中によっても示されている。回顧録は、ブレージネフの第二次世界大戦中の軍務について回想し、あまり重要ではないノヴォロシースク周辺での戦闘を、決定的な戦域として扱っている(※5)。彼の本の明白な薄弱さにもかかわらず、この本はレーニン文学賞を受賞し、ソヴェトの報道によって歓迎された(※4)。この本のあと、さらに二つの別の本が続き、その一つは処女地キャンペーンに関するものである(※6)。ブレージネフの虚栄心は、彼を多くの政治的なジョークの対象とした(※4)。ニコラーイ・ポドゴールヌイがこれについて警告すると、ブレージネフは「もし彼らが私をからかっているのなら、つまり彼らは私を好きだということだ」と答えた(※7)。
伝統的な社会主義的挨拶を保ち、ブレージネフは彼の経歴の中で、多くの政治家の唇に接吻していた。そのうちのひとつはエーリヒ・ホーネッカーとのもので、その開放・解体後にベルリンの壁に描かれた壁画〈神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え〉の主題となっている(※8、※9)。
※1 Roy Medvedev, "Brezhnev-A Bureaucrats Profile." Dissent (Spring 1983): 224–233.
※2 John Dornberg, Brezhnev: The Masks of Power (1974).
※3 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, p. 8. Palgrave Macmillan. ISBN 978-0333794630.
※4 Bacon & Sandle 2002, p. 9.
※5 Service, Robert (2009). History of Modern Russia: From Tsarism to the Twenty-first Century (3 ed.), p. 403. Penguin Books Ltd. ISBN 978-0674034938.
※6 Abdullaev, Nabi (19 December 2006). "Brezhnev Remembered Fondly 100 Years Since Birth". The St. Petersburg Times. Archived from the original on 21 January 2012. Retrieved 11 April 2010.
※7 Bacon & Sandle 2002, p. 29.
※8 "Kiss of Soviet Leader Brezhnev and East German President Honecker". Corbis. ソヴェトの指導者レオニート・ブレージネフと東ドイツの大統領エーリヒ・ホーネッカーが、ドイツ社会民主共和国三十周年の式典でキスを交わしている。
※9 "Brezhnev Hugs Poland's Ruler". The Deseret News. Associatged Press. 1 March 1982. p. 1 – via Google News.
レオニート・ブレージネフが受章した賞と勲章
ソヴェト同盟の褒章
ソヴェト同盟英雄 | 1966年12月18日、1976年12月18日、1978年12月18日、1981年12月18日 | 「ソヴェト国家及び社会への奉仕における英雄的な功績のため」。メダルも誕生日に授与された。 |
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社会主義労働英雄 | 国家の経済と文化における卓越した功績のため | |
レーニン勲章 | 1947年12月2日、1956年12月18日、1961年6月17日、1966年12月18日、1971年10月2日、1976年12月18日、1978年12月19日、1981年12月18日 | 国家への優れた奉仕のゆえ |
十月革命勲章 | 1979年3月14日、1980年12月18日 | 共産主義もしくは国家の促進、またソヴェト同盟の国防の強化ゆえに |
赤旗勲章 | 1942年3月12日、1944年5月29日 | 戦闘中の英雄主義、または戦闘作戦中の卓越した軍事的な功労 |
第二級ボグダン・フメリニツキー勲章 | ||
第一級祖国戦争勲章 | ||
赤星勲章 | ||
「ヴラヂーミル・イリイーチ・レーニン生誕百周年祝賀」記章 | ||
「オデッサ防衛」記章 | ||
「カフカース防衛」記章 | ||
「1941-1945年大祖国戦争対独戦勝」記章 | ||
「1941-1945年大祖国戦争戦勝二十周年」記章 | ||
「1941-1945年大祖国戦争戦勝三十周年」記章 | ||
「ワルシャワ解放」記章 | ||
「ウィーン占領」記章 | ||
「1941-1945年の大祖国戦争における功績」記章 | ||
「軍の絆の強化」記章 | ||
「南部冶金産業の復興」記章 | ||
「処女地開拓」記章 | ||
「ソヴェト同盟軍四十周年」記章 | ||
「ソヴェト同盟軍五十周年」記章 | ||
「ソヴェト同盟軍六十周年」記章 | ||
「レニングラード250周年記念」記章 | ||
「キーエフ1500周年記念」記章 | 1982年 | ウクライーナ首都キーエフの社会・文化的、および経済的発展への彼の貢献ゆえに |
レーニン文学賞 | 1979年 | ブレージネフ三部作と俗に呼ばれる三部作の一部『小さな土地』のために |
レーニン平和賞 | 1973年 | |
勝利勲章 | 1978年2月20日(剥奪) |
外国の褒章
五月勲章 | アルゼンチン | 1974年 | |
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自由の太陽勲章 | アフガニスタン民主共和国 | 1981年 | カーブル |
ブルガリア人民共和国英雄 | ブルガリア人民共和国 | 1973年、1976年、1981年 | ソフィア |
ゲオルギ・ディミトロフ勲章 | ブルガリア人民共和国 | 1973年、1976年、1981年 | ソフィア |
「オスマン奴隷制からの解放百周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1978年 | |
「ブルガリア社会主義革命三十周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1974年 | |
「Г・ディミトロフ生誕九十周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1972年 | |
「Г・ディミトロフ生誕百周年」記章 | ブルガリア人民共和国 | 1982年 | |
キューバ共和国英雄 | キューバ | 1981年 | ハバナ |
ホセ・マルティ勲章 | キューバ | ハバナ | |
カルロス・マヌエル・デ・セスペデス勲章 | キューバ | ハバナ | |
プラヤ・ヒロン勲章 | キューバ | ハバナ | |
「モンカダ兵営襲撃二十周年」記章 | キューバ | ハバナ | |
「革命軍二十周年記念」記章 | キューバ | ハバナ | |
チェコスロヴァキア社会主義共和国英雄 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | プラハ | |
クレメント・ゴットヴァルト勲章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | プラハ | |
白獅子勲章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | プラハ | |
「ドゥクラ峠の戦い」記章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
軍記念記章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | ||
チェコスロヴァキア従軍十字章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | プラハ | |
敵前勇敢記章 | チェコスロヴァキア社会主義共和国 | プラハ | |
社会主義エチオピアの名誉の星勲章 | デルグ | ||
フィンランド白薔薇勲章 | フィンランド共和国 | ヘルシンキ | |
ドイツ民主共和国英雄 | ドイツ民主共和国 | 東ベルリン | |
カール・マルクス勲章 | ドイツ民主共和国 | 東ベルリン | |
諸国民友好勲章 | ドイツ民主共和国 | 東ベルリン | |
ハンガリー人民共和国旗勲章 | ハンガリー人民共和国 | ブダペスト | |
第一級共和国星章 | インドネシア | ||
国民黄金記章 | ラオス人民民主共和国 | ||
モンゴル人民共和国英雄 | モンゴル人民共和国 | ウランバートル | |
モンゴル人民共和国労働英雄 | モンゴル人民共和国 | ||
スフバートル勲章 | モンゴル人民共和国 | ウランバートル | |
「対日戦勝三十周年」記章 | モンゴル人民共和国 | ||
「ハルヒン・ゴル戦勝三十周年」記章 | モンゴル人民共和国 | ||
「モンゴル人民革命五十周年」記章 | モンゴル人民共和国 | ウランバートル | |
第一級国旗勲章 | 朝鮮民主主義人民共和国 | ||
ペルー太陽勲章 | ペルー共和国 | リマ | |
ウィルトゥティ・ミリタリ大十字勲章 | ポーランド人民共和国 | ワルシャワ | |
ポーランド復興大十字勲章 | ポーランド人民共和国 | ワルシャワ | |
第二級グルンヴァルト十字章 | ポーランド人民共和国 | ワルシャワ | |
オドラ、ニサ、バルト海記章 | ポーランド人民共和国 | ワルシャワ | |
勝利と自由記章 | ポーランド人民共和国 | ワルシャワ | |
ルーマニアの星勲章 | ルーマニア社会主義共和国 | ブカレスト | |
社会主義の勝利勲章 | ルーマニア社会主義共和国 | ブカレスト | |
十月十四日革命記章 | イエメン人民民主共和国 | ||
金星勲章 | ヴェトナム社会主義共和国 | ||
労働英雄 | ヴェトナム社会主義共和国 | ||
ホー・チ・ミン勲章 | ヴェトナム社会主義共和国 | 1982年 | ハノイ |
第一級ユーゴスラヴィア星勲章 | ユーゴスラヴィア社会主義共和国 | 1962年 | ベオグラード |
自由勲章 | ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国 | 1976年 | ベオグラード |
関連タグ
党中央委員会書記長
(前任者)ニキータ・フルシチョフ
(後任者)ユーリ・アンドロポフ