概要
戦国史上最も有名な足軽と名高い兵士。徳川家康配下の武将、奥平信昌に仕える足軽。諱は勝商。
武田信玄の突然の死を受け、その息子・武田勝頼は徳川領に怒涛の如く攻め上って来た。「強すぎたる大将」とまで呼ばれた勝頼軍により徳川恩顧の武将たちは連戦連敗、奥平の支配する長篠城(現愛知県)にまで勝頼は迫っていた。
天正3年(1575年)5月8日、500の兵が立てこもる難攻不落の長篠城に、来たる勝頼軍は1万5千。なんとか地の利を生かし全滅は避けていたものの、圧倒的な兵站の差に既に勝敗は決していた。信昌は家康の治める岡崎城に使いをよこし援軍を頼もうとするも、周囲は1万5千の兵に囲まれている。誰がどう見てもムチャなこの状況で、「某にお任せ下され」と頭を垂れたのがこの鳥居強右衛門であった。
14日、強右衛門は夜陰に乗じて火計を使い城を脱し疾風の如く敵陣をすり抜け、翌15日午後に岡崎に到着。ちょうど武田に対抗するために軍勢を整えていた家康は信昌の懇願に首を縦に振り、3万人もの援軍がすぐさま岡崎を立った。
家康は自分達と共に行くように言うも(自分たちに任せて休むよう言ったとする説もある)、一刻も早く知らせを届けたい強右衛門はそれを断り単身長篠に急ぐ。しかし、あと一歩というところで運悪く勝頼の手下に見つかってしまう(強右衛門は長篠城からでも見える雁峰山で狼煙を上げて脱出を報せ、戻って来た時も狼煙を上げており、それに沸き立つ奥平軍に不審に思った勝頼が警戒を強めていた)。
彼が家康の間者だと気づいた勝頼は、「今から『援軍は来ない』と叫べば自由にしてやる。言わねば即死刑に処す」と一計を案じた。強右衛門は呆然とするも、しばし考えた末に「わかりました。では命だけはお助け下さい」とその命令に従った(この時、助命だけでなく「従えば家臣に取り立てる」と勝頼が提案したとする説もある)。
そして時は来た。勝頼たちは強右衛門を引き立て、長篠城の前で晒し者にした。
「よいか奥平よく聞け! これが徳川からの返答だ!」
勝頼のその発言の直後、強右衛門は叫んだ。
「援軍は…あと2,3日で必ず来るぞ!!! だから!! 生き抜け!!! 何があってもだ!!!」
呆然とする勝頼軍とは裏腹に、鬨の声が上がる長篠城。
すぐさま強右衛門は殴り倒され、縛り上げられられる。彼が「助けたかった」命とは、「自分以外の全ての奥平軍」の命に他ならなかったのだ。武田の武将たちにも強右衛門の勇気に感嘆して助命を訴える者も多かったが、勝頼はそれを無視して彼を逆さ磔にして処刑した。
奥平軍は強右衛門の死を無駄にしてはならぬと奮起、懸命に城を守り続けた。かくして名も無き足軽の壮絶な死から2日後、彼の言葉通り、本当に援軍は来た。こうして信昌は首の皮一枚繋がり、時代は戦術の歴史を変えたその一戦に突き進んでいくのである。そして、この忠義の士を処刑したことが勝頼だけでなく武田家の滅亡の遠因となってしまうのだった。
生年不明(1540年説が一般的)、1575年没。享年36歳。
子孫は奥平家の家老として遇された。
死から300年経つ今でも、地元では彼を偲ぶ催しが開かれている。
家康の同盟者である織田信長も彼の壮絶な最期に感銘を受け、立派な墓を建てて丁重に弔うように命じたといわれている。
上述の通り武田家臣にも強右衛門の勇気を讃える者は多く、特に落合佐平次という武将は磔にされた彼の姿を絵に描き、旗指物に使うほど尊敬していた(しかも絶命寸前の強右衛門からちゃんと許可を得て描いたとされている)。これは現存しており、東京大学史料編纂所に保管されている。
創作
『戦国無双シリーズ』
一般武将としての登場は戦国無双4からだった。
『殿といっしょ』
坊主頭の青年。とにかく話を聞かないうっかり者で、武田方のあらゆる調略にすぐさま引っかかるおバカさん。
『信長の忍び』
「へへ…そうだなあ…あえて言うなら『悔いは無え』だな」
ド根性武将・信昌に仕える俊足の足軽。前髪がちょっと赤いのが特徴。主人公の千鳥と共に徳川方に使いに向かう。
その壮絶な死は武田方にも伝わっており、6巻収録の西尾維新によるノベライズでも「そのような輩が居れば見るも無残な死を与えてやろうぞ、すなわち鳥居強衛門の如く」と語られている(ぶっちゃけた話、このセリフを言わせたかったがためにこのノベライズのみ12巻の時系列の話とやたら未来のエピソードになっている)。
『ガールズ&パンツァー リボンの武者』
主人公の鶴姫しずかが「すね様」と呼ぶほど敬愛しており、例の磔の絵姿をチームの旗印にしようと提案したが、松風鈴に即却下された。
関連項目
走れメロス……戦国の走れメロスと例えられることがある