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北条時房の編集履歴

2022-12-23 03:05:49 バージョン

北条時房

ほうじょうときふさ

平安末期から鎌倉前期の武将・政治家。初代連署、初代六波羅探題南方を歴任し、鎌倉幕府内で重きをなした。佐介流と大仏流の祖に当たる。(1175年-1240年)

解説

プロフィール

生 没:安元元年(1175年) - 仁治元年1月24日(1240年2月18日)

 諱 :時連(初名)、時房

通 称:五郎、大仏殿

官 位:遠江・駿河・相模・武蔵守、正四位下

父:時政鎌倉幕府初代執権

母:不明

姉妹:政子源頼朝の正室)、阿波局(阿野全成の妻)など

兄弟:宗時義時(第2代執権)、政範


人物

眉目秀麗な人物であったと伝わり、また後述の通り蹴鞠や和歌にも通じていた事から、源頼家実朝といった歴代の幕府将軍、それに後鳥羽上皇からも気に入られていたという。

特に後者に関しては上皇の命により一時京での出仕にも繋がっており、これが後年の実朝暗殺後の朝廷との折衝、それに六波羅探題としての活躍の素地ともなった。


泰時の治世下でも、時房は執権である泰時をよく補佐し、また泰時も時房と協調しての幕政運営に務めた。しかし、一方は北条一門の長老格、片や北条氏の嫡男である両者の関係性は必ずしも円満とは言い難かった。

泰時が執権となった当初は、時房との間で主導権を巡る争いがあったと見られ、またそもそも時房の連署就任も泰時の本意でなく、異母姉の政子や大江広元といった幕府重鎮の意向によるところが大きいと見る向きもある。後述の通り、泰時は時房の没後に彼の子孫である佐介流と大仏流との扱いに格差を付けたが、これもまた時房流の分裂とそれに伴う弱体化を意図した、泰時の意向があったとされる。


生涯

前半生

北条時政の三男として安元元年(1175年)に生まれる。治承・寿永の内乱には宗時・義時の異母兄たちと違いまだ年少の身だったため関わっていない。文治5年(1189年)の4月に佐原義連(三浦義澄の次弟、蘆名盛氏の先祖)を烏帽子親として元服。義連から一字を取り「時連」と名乗った。


同年に発生した藤原泰衡との奥州合戦で初陣を飾る。正治元年(1199年)正月、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が死去し、その嫡男である頼家源氏の家督を継いで二代将軍となったが、時連はこの頃蹴鞠に堪能であったのを買われてか、頼家の側近として近侍している。

また建仁2年(1202年)6月には将軍職についた頼家の命により、名を「時房」と改める。この改名については、当時やはり頼家の側近であった平知康の「時連の「連」の字は「貫」(銭の単位の意)を連想し印象が悪い」との指摘が背景にあった、という逸話も残されている。

この時期まで時房は官職に就く事なく、頼家の個人的な近臣として仕えていたが、改名の翌年に起きた比企能員の変で比企宗員・時員兄弟(共に頼家側近で、時房とも気脈を通じていた)らが討たれ、主君であった頼家も追放されると、時房はそれに連座する事なく主従関係も消滅した。こうした経緯から、時房が頼家に仕えたのも北条氏からの間諜としての役割を果たすためであった、との見方も示されている。


その後は一貫して北条一門としての立場を通しており、従五位下・遠江守次いで駿河守に任官した元久2年(1205年)には、畠山重忠討伐の折にはその討伐軍の大将軍として出陣。さらに和田義盛とその一族との武力衝突の際にも武功を上げ、上総飯富の荘園を拝領している。官位の上でも駿河守から遠江守、さらに武蔵守へと順調な遷任を重ね、時の相模守であった兄・義時と併せて北条氏は武蔵・相模という幕府の重要な国を掌握する格好となった。


六波羅探題と連署

承久元年(1219年)1月、三代将軍・源実朝が暗殺されると、朝廷と幕府との間で将軍後継を巡る問題が生じた。この時折衝の難航に業を煮やした義時は、1千騎の兵を時房に預けて上洛させ、後鳥羽上皇との間で折衝に当たらせた。

両者とも強硬な態度を崩す事なく、幕府側の求めていた「上皇の親王を将軍として東下させる」という案は潰えたが、一方で上皇から摂関家の子弟を鎌倉殿として下して構わないとの妥協案を引き出す事にも成功しており、これが九条道家の子・三寅(後の4代将軍・九条頼経)の鎌倉下向に繋がる事となる。時房も三寅の下向に際しこれに同行、鎌倉へと帰還している。


承久3年(1221年)に発生した承久の乱において、時房は甥である泰時とともに軍勢を率いて上洛。朝廷軍を一蹴し乱が幕府の勝利の裡に終わると、時房と泰時はそのまま京にとどまり、洛中の治安維持と朝廷監視を目的に六波羅探題を設置し、時房はその南方に就任した。

この時北方に就任した泰時はその後、元仁元年(1224年)の義時死去に伴って鎌倉へと帰還し、そのまま第3代執権に就任するが、時房も程なくして泰時からの招聘により、その補佐役として初代連署となり、鎌倉にて幕政の中枢に携わる事となる。貞永元年(1232年)には泰時と共に政所別当にも就任しているが、この時泰時から譲られる形で時房がその筆頭となっている。


垸飯

鎌倉幕府の重要な儀式の一つに垸飯(おうばん)がある。元日より数日にわたり、北条氏以下の有力御家人が将軍に太刀・名馬・弓矢とともに食事を奉る儀式である。特に元日から3日までの間の垸飯は、鎌倉幕府内の序列を意味した。義時没後の元仁2年(1225年)以降、泰時がその役目を担った嘉禄2年(1226年)と安貞元年(1227年)の2年間以外、一貫して時房が垸飯をつとめている。

他方で、最初の垸飯を務めた元仁2年には元旦のみその沙汰を行い、その後一時的に京都に戻っており、この行動にもまた前述した泰時との主導権争いが絡んでいると考えられている。


嘉禎4年(1238年)に正四位下に昇叙の後、翌々年の延応2年(1240年)に病没。享年66。時房の死に伴って連署も5年以上の間空席のままとなり、後任の連署として北条重時が就任したのは、泰時の次々代の執権である北条時頼の治世下である宝治元年(1247年)になってからの事であった。


時房死後の佐介流と大仏流

時房の庶長子で佐介流の祖となった北条時盛は、時房と泰時の死後に連署就任を要求するもかなわず、却って泰時の孫・北条経時により六波羅探題南方の職を解任。無役になり息子らとともに幕政から排除された。

その後、二月騒動で北条時輔が誅殺され空席になっていた六波羅探題南方に時盛の孫の時国が就き、佐介流も久しぶりに陽の目をみた。しかし、時国を引き立てた北条時宗が早逝して間もなく時国は「悪行」を理由に常陸へ配流・誅殺の憂き目に遭い、同時期には彼の叔父である時光も謀反の廉で佐渡配流に処されるなど、一連の流れを通して佐介流は完全に没落した。余談だが時国は安達泰盛の与党だったため、時国処分はのちの霜月騒動の前哨戦と見なされることがある。


その一方で、時房の四男である朝直を祖とする大仏流は、朝直が泰時の娘婿であった事から時房流の嫡流として重用されており、前述の通り佐介流が没落した後は大仏宗宣が11代執権に就任するなど隆盛を誇った。

もっとも、幕府将軍を烏帽子親とし偏諱を受けていた得宗家や赤橋流に対し、得宗家当主を烏帽子親としていた大仏流は家格の上では前二者よりも一段劣る立場にあったとも見られており、この得宗家との歪な関係性が後の北条貞時の治世下における、貞時と宗宣の政治的対立にも繋がったと考える向きもある。


創作物における扱い

鎌倉殿の13人

 主人公義時の異母弟。時政の三男として誕生し、生後すぐに生母と死別。事実上継母のりく(牧の方)に養育される。元服後に暫くは「時連」を名乗っていたが、史実通り平知康の助言により「時房」へ改名。以降公式を含む作中内外で「トキューサ」と呼ばれる羽目に。

 父譲りの人懐こさで敵を作らず、懐に飛び込むのも上手い。特に蹴鞠は友康のお墨付きを得たほどの腕前で、噂を聞きつけた後鳥羽上皇相手に披露するほど。その反面恐ろしく現実的思考の持ち主であり、汚い手段を取れる度胸も時政譲り。泰時の理想論と違って必要とあらば裏工作も平然と行うなど(対人スキルの高さ故に露見しにくい)、政治的な才覚は父や兄を遥かに上回る。

 表舞台の政治争いで摩耗していく義時にとっては本音を話せる数少ない存在。


関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 執権 連署

北条義時 北条泰時 源頼家 後鳥羽天皇


森田順平 - NHK大河ドラマ草燃える』(1979年)における時房役

瀬戸康史 - NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年)における時房役

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