1953年1月17日生まれ、京都市生まれだが、4歳の時に愛知県刈谷市に転居したため、同地で少年時代を過ごす。
中学校卒業後、刈谷市に隣接する豊明市にある中京競馬場の厩舎に通い、最初の師である工藤嘉見調教師に声を掛けられたことで、JRA馬事公苑の長期騎手課程を受講したのち、1970年に見習騎手として入門する。
1971年に騎手としてデビューする。1973年には皐月賞、東京優駿に騎乗し、3年目で八大競走に初騎乗となる。しかし、一時期は大舞台に恵まれず、勝利数も上積みがないことから、スランプに陥り引退も考えたという。
この状況を見かねたのが第2の師である宇田明彦調教師である。宇田に声をかけられ、1978年に宇田厩舎所属となった。この出来事は南井自身「大変ありがたいことだった」と語っており、この宇田の元で「騎手の楽しさがわかるようになった」と述べるほどだった。宇田厩舎は重賞10勝のうち8勝は南井の手綱によるものだった。
宇田厩舎所属後も中堅騎手として評されていたが、南井自身の最大の転機となったのは1987年、タマモクロスとの出会いだった。同年秋に400万下藤森特別・鳴尾記念を制すると、同馬は翌年以降も金杯(西)・阪神大賞典・天皇賞(春)・宝塚記念・天皇賞(秋)と重賞6連勝・うちGⅠ3連勝の8連勝を達成、その間オグリキャップとの激闘も展開した。
1989年にはそのオグリキャップの主戦騎手として騎乗し、オールカマー・毎日王冠・マイルチャンピオンシップを制するが、同時にイナリワン・スーパークリークとの激闘の中での勝利だった。他にも初のクラシックタイトルとしてバンブービギンで菊花賞を制している。
1994年1月に所属する宇田師が癌のために死去、厩舎が解散し南井はフリーランスとなるが、
そのさなか、1993年秋より騎乗したナリタブライアンの主戦として戦い、翌1994年に史上5頭目の牡馬クラシック三冠馬となり、南井も史上5人目の牡馬クラシック三冠騎手となる。
また、マーベラスクラウンにも騎乗してジャパンカップも制し年間GⅠ5勝を達成、長らく武豊が更新するまで1位タイ記録として保持され続けた。
1997年、マチカネフクキタルで菊花賞最多タイの3勝目を挙げ、1998年はサイレンススズカの唯一のGⅠ勝利となる宝塚記念で勝利し、結果的に最後のGⅠ勝ちとなった。
1999年、調教師転身のため騎手を引退。最終騎乗となった白川郷ステークスを勝ち、有終の美を飾った。
2000年、調教師として最初の師であり、前年定年で引退した工藤嘉見師から引き継いだウイングアローで記念すべき第1回ジャパンカップダートを制した。
2023年現在、調教師として重賞12勝を挙げている。また、現在南井厩舎の調教服はかつて宇田厩舎で用いていた「黄色・黒丸」であるが、これは生前の宇田明彦師への「感謝の意を忘れないように」と、南井自身は現役騎手当時より調教服は宇田厩舎の黄色・黒丸のを着続け、厩舎開業とともに正式に南井厩舎の調教服となっている。