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大村益次郎の編集履歴

2023-04-24 01:36:31 バージョン

大村益次郎

おおむらますじろう

幕末に活躍した長州出身の軍事指導者。「日本陸軍の父」ともいわれている。

概要

生没年 文政8年(1824年)~明治2年11月5日(1869年12月7日)


長州出身の洋学者、兵学者。旧名「村田蔵六」。

第二次長州征討において軍事指導者として長州軍を指揮して幕府軍を破り、戊辰戦争においても参謀として官軍の勝利に貢献した。


生涯

 文政8年(1824年)5月3日、周防国鋳銭司村(山口県山口市)の村医者の家に生まれる。

 天保13年(1842年)、シーボルトの弟子・梅田幽斎に医学・蘭学を学んだ後、豊後国(大分)日田、広瀬淡窓の私塾・咸宜園に入り、弘化元年(1844年)まで漢学・算術・習字などを学ぶ。

 弘化3年(1846年)、蘭方医としても有名な緒方洪庵の私塾・適塾に入門し塾頭にもなるが、嘉永3年(1850年)、故郷に帰り村医者となる。

 

 嘉永6年(1853年)、藩主・伊達宗城のもと洋学研究に熱心な宇和島藩に出仕。輸入された洋式兵学書の翻訳、蒸気船の設計・開発、建造に携わる。

  

 安政3年(1856年)、江戸において私塾・鳩居堂を開塾、次いで幕府に招かれ洋式兵学書の翻訳研究を担当する蕃書調書教授手伝から講武所教授に就任する。

 大村としては、ひとりの武士が武勲を競いあう旧来的な戦術は時代おくれと考えており、ひとりの指揮官が戦場全体を俯瞰的に把握、陣形を構築する西洋式の戦略こそこれからの時代に合うと考えていたようである。

 ところが当時の幕府を率いていた老中首座・阿部正弘は欧米列強の脅威には理解を示していたものの、幕藩体制を支える武家社会をこわすことになるこれらの改革をなすことはなく、大村は阿部に軍事的に無策な幕府に失望したとの書簡を送っている。

 

 万延元年(1860年)、幕府出仕のまま長州藩に迎えられ、軍制改革に参画。

 文久3年(1863年)、萩に帰り、藩校・明倫館の兵学校助教授に就任。

 

 元治元年(1864年)、長州藩が京の都に火を放ち、間隙を縫って孝明天皇の身柄を長州に迎えようとの陰謀が発覚し旅館・池田屋に新選組が急襲する事件が起きる(池田屋事件)。

 同年7月、窮地に陥った長州藩は、失地挽回を狙って軍勢を京に差し向けるが、会津・薩摩両藩が主導する幕府軍に敗退、朝敵の烙印を押される(禁門の変・蛤御門の変)。


 元治元年(1864年)11月、孝明天皇は幕府に勅命を下し、第一次長州征伐が始まる。

 この戦いは幕府の勝利に終わり、藩主父子は江戸に赴いて謝罪し、家老3人が切腹するとの約束でことを収めることとなった。

 

 幕府軍撤退後、長州では高杉晋作らによるクーデターが起き、対幕強硬派が実権を握ることとなる。この結果、藩主父子の江戸下向は反故となり、慶応2年(1866年)3月、幕府は再び軍を動かして長州を討つことを決断、第2次長州征伐が始まることとなった。

 

 この間、長州では薩摩と秘密同盟を結ぶ一方、大村が長州軍制改革に着手。幕府軍との戦いでは旧式の鎧・兜を身につけることなく新式の銃・火砲をもって幕府軍を圧倒、高杉晋作率いる奇兵隊のゲリラ戦法に苦戦し小倉城は落城、さらには将軍徳川家茂が大坂で戦病死したことにより幕府軍は撤退、事実上の敗戦に終わり、幕府の権威は地に堕ちることとなった。

 

 以後、戊辰戦争にも従軍。

 明治元年(1868年)4月、上野寛永寺に籠った彰義隊を一日で鎮圧。関東の治安を維持する役割を担うことになるが、その合理的な思考は薩摩の海江田信義をはじめとする守旧派武士の反感を買ったという。

 

 明治2年(1869年)、明治新政府の兵部大輔に任じられ、軍制改革を担うことを期待されるが、9月、守旧派の長州藩士・神代直人に襲われ負傷、破傷風を併発して11月に死去した。

本来であれば治療さえすれば落命するほど深くはない傷であったが、当時は明治政府の役人は、負傷した際には治療の届け出をしなければならなかったが、そのための手続が遅々として進まず、ようやっと治療の許可が降りた際には、すでに破傷風菌が傷口から入り込んでおり、もはや手の施しようがなくなっていたと思われる。

その後建立された靖国神社で最初に奉られることとなり、参道には銅像が据えられている。


人物像

語学・科学・物理学・医学に精通し、とりわけ軍事的才能に秀でた希代の戦略家であったが、一方で人に心をあまり開かない偏屈者であり、同時代の人からも賛否両論別れる難物であった。

上野戦争の際には、敵に多くの損害を与えることはできるものの、味方の兵の多大な犠牲が出るような作戦を立て、参謀の西郷隆盛が「あなたは味方の兵を見殺しになされるおつもりか」と大村をなじったところ「そうです」とあっさり返したという。

彼自身、自分から能動的に行ったことと言えば江戸で私塾・鳩居堂を開いて学生を教えたことを皮切りに数えるほどしか無く、彼の偉業の殆どは周囲から求められた仕事を機械的にこなした結果であると言える。

ある意味、「自分の意志で世界を切り開く英雄」とはまるで異なる「与えられた仕事を最高の形で仕上げる職人」とも言える人物であった。

そのある意味での職人気質のせいで大村益次郎は人から誤解されることが多く、自分の考えを他人に語りたがらない性格が更に災いし、彼を嫌う政敵も多かった。薩摩の海江田信義はその最もたる例で、戊辰戦争において自らの提言した作戦を大村に鼻で笑われたことにより大村を非常に憎んでおり、一時は海江田が守旧派らを焚き付けて襲撃させたと言われた。

性格はとにかく無愛想で、ある時村人が夏のうだるような暑さの日に「先生、今日もお熱うございますなあ」と挨拶したところ「夏は暑いに決まっているのであります」と返したという。


創作における大村益次郎

とにかく無愛想で世渡りも下手くそで、軍学者としては幕末の混乱でなければ抜擢されることは無いだろうレベルの政治力の低さだが、志望していた医者としての才能に比べ軍学者としての才能は並外れていた。

創作でも多くの場合出番や口数こそ多くないが、軍事指導者として偶に登場する。

一部の作品では交友のあったシーボルトお稲と不倫(お稲は未婚である)関係にあったと想像されているが、これは医術の師に強姦されたお稲を、語学の師である大村は住み込みで教授して慰めていたことによる周囲の邪推を基にしている。

彼を主人公にした司馬遼太郎の小説「花神」でも大村益次郎とお稲のプラトニックな関係が描かれているが、これは司馬遼太郎の知人の教授が「大村はお稲のことが好きだったのでは?」と語ったことに司馬がインスピレーションを得たためであり、司馬自身は実際の大村益次郎にそんな気は無かっただろうと結論づけている。


親族

大村家の家督は養子・松二郎(武士の山本藤右衛門の子)が継承するも、彼もまた実子を持たず28歳の若さで病没した。このため松二郎の養子・寛人(元長州藩士・亀山教霖の子)に継承され、彼は華族・大村子爵家の初代となった。

しかしこの寛人も子を残さず24歳の若さで早世しており、寛人の養子として長州藩14代藩主(毛利宗家28代当主)・公爵毛利元徳の子である徳敏(寛人とは8歳差)が迎えられ、ようやく系譜は安定した。繰り返し養子を迎えてでも益次郎家の家督を継がせようというのは、益次郎の遺したものの大きさを感じさせるとも言える。


徳敏の孫である和敏は昭和43(1968)年に東久邇盛厚(旧皇族、東久邇宮家継嗣)と同妻(同妃)成子(成子内親王)の長女である文子(文子女王)と結婚した。彼女は昭和天皇の上から2番目の孫でもあり、天皇はこの結婚に際して「孫の初めての結婚だから嬉しくないわけがない」という趣旨の発言もしている。しかし夫妻は数年後離婚、まだ旧皇族の記憶も濃い時代だったこともあってか、週刊誌にこの経緯について書かれたこともあった。その後は両者とも再婚している。


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