古文辞学派の亀井南冥・昭陽父子に学ぶ。
文化4年(西暦1807年)に家塾桂林荘を開き、さらに文化14年、私塾咸宜園を完成させた。
肥前の大村藩、豊後の府内藩に招聘されたこともあるが、おおむね郷里にあって教育に専心。
咸宜園の塾生は全国から集まり、4000名以上になった。
〝出題→答案提出→採点〟という成績評価の方法は淡窓に始まったとされる。
江戸時代最大規模の私塾であり、門下からは高野長英・大村益次郎・長三洲らが出、幕末・維新に活躍する人材を多く育てた。
頼山陽・梁川星巌・田能村竹田らと交遊、また三浦梅園・帆足万里とともに「豊後の三先生」と称せられる。
『約言』『迂言』『遠思楼主人詩鈔』『淡窓詩話』などがある。